ちょっと太めの40代主婦、加奈子はリビングでお昼のゴールデンタイムのTVを見ながら煎餅をかじっていた。

 


 どの国のTVでもゴールデンタイムは戦争、拷問、捕虜を使った人体実験一色なのが一般的だ。

 家族で見られるからである。

 日本では、若手の美しい俳優が活躍する戦隊もの、海外ドラマも一部の主婦のハートをつかんでいたが、物語をたしなむことができるのは、内面の豊かな人である。

 伝統的な兵隊ポルノは、他人をこき下ろす方がドラマの何倍も面白い主婦たちの間で、長年根強い人気を博していた。




 残暑の昼下がり。加奈子と近隣主婦たちは、連れ立ってスーパーのクリアランスセールの残り物、色もデザインも今一つのブラジャーをあさっていた。

 今年の夏の流行は、アニマルプリントに真紅のレース。

 しかし、若いモデルがケモノ娘のようにかわいくなるのと違って、さえないおばさんブラジャーがそれだと浮いた感じにならないか、バランスが問われることになる。

 



 彼女たちはアニマルブラジャーを選びながら、さえずりあった。

 「ねえ聞いた? 高崎さん、自殺しちゃったんだって」





 「ええ? 勿体なーい」

 「もう彼の喘ぎ声聞けないの?」

 「逸材だったのに」

 「それより今買い占めないと、高崎さんのグッズ市場からなくなっちゃうよ」

 「そうだね。急がないと」

 「本当に惜しい人を亡くしたね」



 戦地の兵隊の中にはメディアに目をつけられてノイローゼになる者、自殺するものもいた。

 しかし主婦たちにとっては人権よりポルノが大事。兵隊ポルノは必要悪だった




 樋口梢は成浜市の有田区丸ヶ峰に住んでいる。

 大学卒業後、一時的に東南区に引っ越した時から今まで、集団ストーカーの統合失調工作に遭っている。

 



 どこで働いても退職に追い込まれ、働けない以上はただで生保はもらえない。

 彼女はブログで被害告発しながら、有田区の有田の丘病院デイケアに通っていた。

 



 彼女はADHDだったが、診断は受けていない。

 主治医のいる有田の丘病院はADHD専門医がいない。

 主治医に発達障碍の相談をする度、統合失調の思い込みで片付けられていた。




 彼女はセカンドオピニオンを受けたが、そこでの精神科医は、梢について子供の頃ADHDだったかもしれないが今は統合失調の治療優先と判断した。

 統合失調の薬を飲んでいる梢は、それを理由にADHDの薬を受け取ることができない。

 両者の薬は相性が悪いとセカンドオピニオンの医師は説明した。


TV道場

 梢は母親が絶世の美女だったこともあり、容姿に恵まれていた。

 このため、デイケアで若い美人好きでちょっと太めの中年男性障碍者、林田に気に入られていた。



 デイケアとは入院、通院患者が社会に復帰するために、まずどこかに所属する練習をするところだ。

 林田は症状の軽い男性患者で、ちょっとおしゃべりだが、接近してくるだけで被害はなかった。



 木枯らしの吹く12月、林田は田舎の母親が体調を崩したらしく、看病のため実家に帰ることになった。

 思い出すと気のいいメンバーだった。

 最後にデイケアにやってきた時、母親が編んで送ってくれた赤いマフラーを嬉しそうに巻いていた。




 林田がいなくなると、デイケアの環境はますます深刻になった。

 有田の丘病院の中のデイケア、まっぷるは、障碍者のひがみ嫉みが渦巻いていた。



 梢が第二ルームでドリンクを飲んでいると、たいてい苦手なメンバーが集まった。

 そもそも苦手なメンバーしかいないのだ。

 彼らは悪意なく、自分より豊かな人間をこき下ろすのが日課だった。



 「だからあ、美幸さんは先週、離婚したでしょ。旦那さんがあれだけサポートしてたのに、ありがたみがわかってなかったんだよ」

 「でもお、旦那さんも浮気の前科があるって言うじゃない」

 「美幸さんが大事にしてなかったんだよ。仕方がないじゃないか」

 「そうそう、美幸さんもいい勉強になったと思うよ」

 メンバーはこのような汚らしい噂話が大好き。

 相手と自分の境界がわからない。




梢は第一ルームに移動した。

同時に噂大好きメンバーの一人、太鼓腹四十代の畑山も同じ動きをする。

彼は第一ルームにいた若手痩身美女メンバー、新宿美幸に報告する。



「山本さん、ああやって味方面してるけどね、陰で美幸さんの離婚は当然だったって言ってたよ」

「何ですってえ!!」



 美幸が泣いて爆発し、職員が消火に当たる。デイケアは毎日カーニバル。




 職員がメンバーの負の欲求に合わせること自体が問題だったが、デイケア、まっぷるでは朝のニュースの時間も、昼のゴールデンタイムも兵隊ポルノ一色だった。

 レクリエーションの時以外は、常に同じチャンネル。

 梢はBL小説を楽しむことはあったが、俳優ならともかく、生の男性兵隊が同性でからんでいるのを見ると無理強いされた虐待にしか見えず、吐き気がした。




 デイケアはレクリエーションに力を入れる所、患者の休息に重きを置くところ、楽なところを探せばいくらでもある。

 しかし、まっぷるの大画面TV、終日ポルノダダ流しはおかしかった。

 精神衛生上よくない。




 職員以外に、チャンネル権を持ってるのはTV流しっぱなしでないと生活が成り立たない類の古株メンバーだ。

 老いも若きも、男も女もいる。




 「ああ、今日もこの番組か」

 「つまらないねえ」

 「ああ、つまらない」

 「本当につまらないね」



 梢は古株軍団に訊ねた。

 「じゃあ、消していいですか」

 「駄目だよ。ついてないと何していいかわからないよ」




 芸術をたしなむ、笑いでストレス解消する、あるいはTV番組を一から創る行為ならいい。

 しかし、まっぷるメンバーはそれ以外の目的でポルノ番組を見続けていた。

 脳が退化する。




 俗なTVに親しんでいなくても、有識者の中でなら健全にやって行ける。

 しかし梢はデイケアを義務づけられている。

 障碍はあれど、言語IQの高い彼女には最悪の環境だった。

 まっぷるはもはや社会復帰のための施設とは言えなかった。





 この冬、まっぷるに通所を始めたばかりの若いメンバー、葛城美咲は名前も中性的だが小悪魔的な容姿についても、男性ではもったいない青年だった。

 長身で血色がよく、背筋がまっすぐなメンバーはなかなかいない。

 パリッとアイロンのかかったカジュアルな服装も、場所を間違えたデザイナーのようだった。

 



 今年の冬の男性ファッションの流行は、明るいナイルグリーンとライムグリーンの取り合わせだが、葛城は若者の中では一人だけターコイズブルーを着こなして目立っていた。




 葛城は兵隊ポルノが始まると、たいてい挙動不審になり、貧乏ゆすりを始める。

 そして生真面目な顔でTVのコンセントを確認しに行く。

 危険な真似はしなかったので、職員は好きにさせていた。

 しかし、ある朝、小夜がTVに苦しんでいると、葛城は職員が目を離している隙に備品のはさみでコンセントを切断した。




 TVはブラックアウト。メンバーがどよめいて、50代女性職員、村山が駆け付ける。

 「葛城さん、駄目じゃないですか」

 追及されると葛城は返事に困っている。村山は叱りつけた。

 「TVはね、みんなのものなの! 親御さんにお金払ってもらいますよ!」




 葛城は生真面目な顔で答えた。

 「僕、TV見てるとコンセント切断したくなるんです」

 「駄目ですってば!」

 「だってやっちゃうんです。我慢ができないんです。お薬も飲んでます。僕は僕で苦しんでいるんです。患者を止められなかったあなた方にも責任があります」

 「や、でも」





  後ずさりする村山に、葛城が、ずいと迫る。

 「どう責任取るつもりですか」

 「責任と言っても」

 「仕事してください」



 葛城が生真面目な顔で、あっぱれな自分弁護を繰り広げる。

 村山はたじたじ。

 梢は葛城のおかげで一日救われた。




 しかし翌日、デイケアに新しいTVがやってきた。

 まっぷるのレクリエーションも、ゴールデンタイムもTVに依存しきっているのである。

 病院側は根拠もなくデイケアの機能に必須として、驚異の速さで予算と備品のTVを用意した。

 また梢の苦しみが始まった。


騒音道場

 梢は聴覚過敏がある。まっぷるのTVは作業の時間以外は昼食の時間も大音響。

 TVの中でクリスマスソングに合わせ、鈴とモールと金銀の装飾品をつけた兵隊たちの騒々しいプレイ。

 まっぷるメンバーはこの音声が原因で、怒鳴ってコミュニケーションをとる。

 このため梢は休めなくて困っていた。




 ある朝、デイケア代表、太めの50代男性職員、銀野忠司に頼んで二人でプログラムを抜けた。

 病院ロビーの長椅子で相談する。




 「私は聴覚過敏があります。TVを消して休ませてください」

 「うーん、見てる人がいるからね」

 銀野は作ったような渋面で答えた。

 「何パーセントの人が見てるんですか」

 「そうはいってもね」



 銀野は話を濁し、梢をあやすようにへらへら笑い、質問に答えなかった。

 精神病患者の不満を思い込み扱いしていれば彼らは仕事をしないで済む。

 「見たい人はTVがないと具合が悪くなるんですか」

 「そうじゃないけどさ」

 また質問に答えない。

 銀野は汚かった。




 「私はTVで具合が悪くなるんです。せめて兵隊ポルノの番組はやめてください」

 「ご意見箱に投函してみたら」

 梢は要求を紙に書いて箱に入れた。




 年明け、一月初旬の朝、メンバー会議に出席。

 議長の銀野が紙を読み上げる。

「チャンネルを変えたいって人がいるんだ。この人はTVハヤテが希望みたいだ。みんなどう思う」

 



 銀野は意見者を匿名扱いすることで、梢のADHD特性をメンバーに知らせなかった。

 そもそも有田の丘病院は梢の統合失調の面倒を見ているだけで、ADHDのサポートに関しては病的と呼べるほどやる気を見せなかった。




 TV流しっぱなしでないといられない古株メンバーが発言した。

 「いつもポルノ番組だから、いつも通りでいいと思う」

 銀野は結んだ。

 「じゃあ、決まりだね」

 会議は終わった。

 梢は銀野に抗議した。

 「おかしいです」




 「でもみんなの決定だから。デイケアって集団にあわせる訓練をするところなんだよ」

 銀野の攻撃は正論のオブラートに包まれ、彼女が攻撃だったと理解したのはダメージを受け続けたずっと後だった。




 梢はTVダメージのせいでデイケアの部屋の中にいられず、たびたび脱出して外の長椅子に座った。

 デイケアの部屋の外は暖房が効いておらず、寒い。

 梢は上着をかき寄せ、泥のようにぐったりする。



 ある昼下がり、暖かそうなパステルイエローのスカートをはいたデイケア女性職員が注意しにきた。

 「梢さん、集団行動を学ぶところですよ」

 デイケアルームの長椅子で横になってグースか寝ているメンバーには注意しない。職員は梢だけ攻撃した。




 木村隆はまっぷるに通う30代メンバー。

 太めなことと顔にはコンプレックスがあるが、豊かな髪は自慢で、最近はパーマを繰り返している。




 お昼の給食の後は、デイケアが終わるまで長椅子で寝て時間をつぶすのが日課だった。

『眠い』と言えば責める職員はいなかった。

 しかし1月頭から、新人メンバーの葛城が、四面四角に隆にちょっかいを出すようになった。



 隆が寝ていると起こしにやってくる。

 「木村さん、どうしてデイケアで活動しないんですか」

 「だって退屈なんだもん」

 「集団行動を学ぶところですよ」

 隆は仕方なく職員詰め所に出向き、苦情を訴えた。

 「葛城君がいると休めないよ」




 まっぷる女性職員、森岡は、メンバー木村の訴えを聞いて同日午後、葛城を詰め所に呼び出した。

 「葛城君、休んでる人を取り締まったらいけないよ」

 「あなた方、樋口さんに集団行動を求めてるじゃないですか。僕、同じことしただけです」




 「樋口さんは特別なんだよ」

 「何が特別なんですか」

 「彼女のプライバシーだから答えられないよ」

 「差別でないなら、説明してくださいよ」

 「説明できないけど、医学的根拠があるんだよ」

 「ぼく、曲がったことが嫌いなんです」




 葛城は森岡にさんざんぱら迫った後、医学的根拠を知ることができずに諦めて引き下がった。

 しかし、曲がったことが嫌いなストレスが解消できなかったことが仇になり、次の昼休みに貧乏ゆすりをはじめたらしく、職員の隙を突いてTVのコンセントをチョッキンした。




 兵隊ポルノに苦しんでいた梢はまた葛城に救われた。

 彼のチョッキン現場に職員が駆け付けるが、後の祭り。

 「葛城君、駄目だって言ってるじゃないか」

 葛城が真顔で口答え。

 「僕だってやりたくないんです」

 「だったら普通切らないでしょ」

 



 「止まらないんです。僕も苦しんでいるんです。僕を止められなかったあなた方にも責任があります。何のためにデイケアに通ってるのかわからなくなります。責任取ってください」

 「しかし」

 「どうして仕事をしないのですか」

 


 また職員たじたじ。

 葛城はチョッキンすること以外は言ってること全部正論。

 見てるだけなら面白いが、敵に回すと恐ろしい存在だった。

 病院は二日後、またデイケアにTVを調達することになった。




 今度はコンセント本体装着型のTV。

 これならチョッキンされても、コンセントを取り換えればいい。

 葛城もいくらか負担しているようだが、デイケア職員のダメージっぷりから病院側の負担が大きいように見えた。



フルマスク

 「これで何回目だね」

 「三回目です」




 デイケアの職員詰め所に仔猫の大合唱。

 代表の銀野忠司はまっぷるに配属された若手新人の看護師、春日結弦に弱っていた。

 熱心だし真面目だし、人柄、女性受けも申し分ないのに、職場に猫を拾ってくる。





 職員は忠司以外、全員女性で既にメロメロ。仔猫達に雪だるまの絵の描かれたピンクのフリース毛布を与え、すでにミルクを温め、その悪魔的なかわいさに悶絶している。

 忠司もいちいちとろけそうだったが、何とか正気を保った。




 春日に指導。

 「詰め所は里親を探すところじゃないんだ」

 「でも守らないといけないんです」

 「もう一度、捨ててきなさい」

 



 春日は肩を落として言うことを聞いた。

 お母さんかお父さんみたいなところがある青年だった。




 デイケア職員代表、忠司は離婚しており、交流があるのはひとり娘の小百合だけだった。

 彼女はフードチェーン店九州支社で働いている。

 母方で育っていたが、その割に母親とそりが悪く、養育費を払っていた忠司の方になついていた。




 忠司は職場で代表だったが、職員の数が少ないので雑務もやっている。

 娘と違って家事ができす、毎日仕事に忙殺され、どんどん太鼓腹がはっていた。

 成人病まっしぐらなことは半ばあきらめている。

 昼食は給食を取る時もあったが、病院食はまずい。

 忠司の昼はカップ焼きそばが定番だった。

 



 これとは対照的に春日結弦は彩のいい弁当を持ってきていた。

 結弦も小百合の世代で、未婚。

 「お母さんのお弁当かな」

 忠司は冬季限定ホット大辛カップ焼きそばをほおばりながら訊ねた。

 



 結弦はマリアのような優しい笑顔で笑った。

 「僕、自炊してるんです」

 「すごいね」

 「今度、銀野さんのお弁当、作って来てあげますよ」

 「そんな、家族や恋人じゃあるまいし」

 「激務と食生活を見たら言いたくなりますよ。僕が美味しい根菜の煮物、持ってきてあげます」

 



 女性職員が割って入る。

 「あ、銀野さんずるーい」

 「私も結弦君の煮物食べたいな」




 結弦は気持ちよく請け合った。

 「じゃあ大規模に作りましょう。予算を出してくださったら、皆さんにごちそうしますよ」

 「本当? 結弦君?」

 声を絞りながら、小さな歓声を上げる女性職員の軍団。大声を出すとスクープがばれてデイケアがカーニバルになるからだ。

 



 忠司は少しやけた。

 大辛焼きそばで鼻がじんじんしたが、心の中はもっとじんじんした。

 結弦は絵画の中の聖職者のような透き通った肌も、健康も、美味しいご飯も全部持っていた。




 2月、梢が女性雑誌で流行中の赤地に白水玉のチュニックセーターを着てゆくと、メンバーに囲まれしばし話題にされた。

 彼女が流行カラーを着用するのは珍しかったからだ。

 梢は話題にされたのはうれしかったが、人に囲まれたことで孤独が恋しくなった。

 TVの脇に飾ってある青紫の冬の花も落ち着かなげである。




 彼女は視覚過敏もある。周囲の情報をシャットダウンするために、段ボールの中に入る、布をかぶる対処法を必要とする時がある。

 銀野は他のメンバーが布団でフルマスクをしている時は許していたが、梢がフルマスクをした後日、2月のメンバー会議で注意した。




 「あとね、顔がわからない人は病院にいれられないルールがあるんだ。フルマスクはだめだよ」

 この後、職員たちは梢のフルマスクを公明正大に攻撃するようになった。 

 ほかのメンバーのフルマスクに目をつぶり、梢にだけフルマスクをする劣等生のレッテルを張って、集中的、組織的に監視したのだった。




 上田勝彦は中年面長のっぽのまっぷるメンバー。

 容姿のどこをとってもいちいち長いのをチャームポイントと思っている。

 プログラムのほとんどに出席せず、昼食後は長椅子で寝て、デイケア終了まで時間を潰すのが日課だった。




 デイケアでは具合の悪くなった人用に布団が2セット置いてあったが、本当に体調を壊した人はその恩恵にあずかることはできない。

 デイケアの長椅子と掛布団は、プログラムに参加しないで、寝て時間を潰す固定メンバーの争奪戦の的になっていたからだ。




 勝彦は毎日勝ち取った布団を頭までかぶって幸せを満喫していた。

 100均の腹巻とぬくぬく靴下で装備万端。

 飯と寝るためにデイケアに通っている。




 しかし、2月のメンバーミーティングの影響を受けた新人葛城が、職員の真似をして勝彦に注意するようになった。

 「上田君、ソファでお布団かぶっちゃだめだよ。フルマスクになるじゃないか」

 メンバーの中で長椅子の争奪戦を繰り広げていた昼寝部隊は全員葛城から被害に遭い、職員に上告することになる。

 「彼のせいで休めないよ」



 忠司は葛城を呼び出した。

 「取り締まりをやめてくれ」

 「あなた方、樋口さんを取り締まってる」

 「医学的根拠があるんだ」

 「どんな」

 「プライバシーだからね」

 



 忠司は葛城を穏便におっぱらった。

 しかし曲がったことの嫌いな葛城は知識欲を満たされなかったことで不安定になったらしく、忠司たち職員の隙をついてTVの外に露出していた外部配線をチョッキンした。

 必ずしもコンセントでなくていいようだ。



 「もう君、来ないでくれよ!!」

 忠司は現場に駆け付け、とうとう泣き叫んだ。しかし、葛城は真面目に答えた。

 「僕、助けを求めて来てるんです。患者に危害を加えたわけじゃないのに見放すんですか」

 「これ以上予算は出ないよ!」

 


 葛城の正論が繰り出される。

 「僕だってやりたくてやってくわけじゃないんです。僕を止めてくださいって言ってるじゃないですか。どうして仕事してくれないんですか。訴えますよ」

 「ウワーン!」

 忠司は悲しみに身を引き裂かれる思いだった。


気づかせろ

 底冷えするデイケア外のロビー長椅子で、梢は担当の職員、盛岡に苦しみを訴えていた。

 吐く息が白い。

 


 「TVがつらいんです。大きい音も肉声も駄目なんです」

 「うーん、でもTV見てる人がいるからね」

 「その人たちはTVがないと具合が悪くなるんですか」

 「そうじゃないけどさ」




 盛岡は優しそうだったが、病的といえるくらい小柄で細かった。

 食も細いので有名。

 ブリザードの巨人が彼女の胴体を捕まえたら、ぽきんと折れてしまいそうだ。

 しかし彼女の祖父がお坊さんだったこともあるのか、メンタルは梢より頑丈である。

 しかし、盛岡も話を濁す。

 梢は言った。




 「私はTVがあると具合が悪くなるんです」

 「そうはいってもね」

 また話を濁す。

 解決したくないから我慢しろと言っているのだ。

 盛岡もまた汚かった。





 銀野は部下の村山に訊ねた。

 「それで二人の面談内容は?」

 「ADHDの聴覚過敏に相当苦しんでるようです。健常者は特に気が付かないからTVの音声を上げましょう」



 離婚したばかりの女性メンバーが、納得して言った。

 「ああ、その中で、あたしが黄色い声で絶叫すればいいんだね」

 「新宿は高い声が通るからね」

 若く美しい女性メンバーの新宿、薄毛の中年男性メンバー小山が相槌を打った。




 ここではメンバーと職員が対等な位置関係になる。

 全員銀野の部下だ。

 銀野はうなずいた。

 「ターゲットは攻撃に気づいて、非工作員の森岡が加害者に情報を流してるような錯覚に陥るだろう。みんなでどんどん攻撃に気づかせてくれ」




 「最終的に誰にも相談できなくなって社会で孤立するね」

 「本当はスマホのオッケージャッカルが音声を拾ってるだけなんだけどね」

 「いくらスマホを調べても盗聴器は出てこない」

 工作員にして若手美人理学療法士、山原、メンバー新宿、パーマ大好きメンバー木村が続いた。




 「そうだ。ジャッカル社に工作員がいるとは誰にもわからない」。

 「スマホの電源を切ってたら被害に遭わないのに」

 銀野の後に小山が気の毒そうに笑った。




 彼らは友の会工作員。

 友の会は集団ストーカー行為を行い、統合失調に仕立てたターゲットの拷問データを日本と海外の科学者、心理学者、盗撮データを変質者に売りさばいて財源にしている。

 別名、死の商人と呼ばれる。




 梢にとって、奇妙なことに盛岡に苦しみを訴えれば訴えるほど、デイケアは地獄になった。

 TVを消してレクリエーションの時間になると、職員が気を利かせてBGMを大音響でかける。



 TVスポーツの時間は、新宿をはじめとした高周波メンバー叫びまくる。

 ほかのメンバーがその中でコミュニケーションをとれば、互いの声を聴くために、自動的に全員怒鳴り声になる。

 まっぷるは気持ち悪いくらい、静かなメンバーの足が遠のいてしまった。




 ある日の午後、梢は持ってきた騒音計の電源を入れた。

 すると叫ぶメンバーも怒鳴るメンバーも鎮まり帰った。

 しかし、集団ストーカー相手に計測器は役に立たない。

 記録を取らせないように工作されるからだ。

 しかし障碍者メンバーが組織であることがわかった。





 梢はここのところ、若い新人女性メンバー、渡辺が密着してくるので弱っていた。
 渡辺は短すぎるポニーテールが特徴的。
いつも持参したコンピューターを何か熱心に打っているのだが、ゲームではないようだった。
 


 渡辺は梢の隣を特等席にしてしまい、コンピューターに鼻を突っ込みながら病的に梢をストーキングしてくる。
 そういう特性の人はいる。



 今日の渡辺はパンツルックで、トップスはインナーの上に赤地に白水玉のフワフワ系タンクトップである。
 背中が大胆なバッククロスになっており、真ん中の大きなリボンが派手に自己主張していた。
 そして似合っている。



 昼下がり、梢はだめもとで渡辺に話かけることにした。
 「離れてくれませんか?」



 渡辺は殺気立って噛みつくように梢を睨んできた。
 国境越えまであと三歩のところで、幼い息子を革命軍に連行されそうになった亡命中の女性貴族の目をしていた。



 梢は渡辺の迷惑行為を職員に相談した。
 しかし、問題児は大抵、職員の取り締まり対象にならない。
 不幸でかわいそうだからである。
 


 この手の施設では、職員はIQの高いメンバーに我慢を強いて、彼らの安全を搾取する。
 すると重い障碍者を上位とした、完全なる縦社会ができる。
 上位者は上位であるのに職員の怠惰から愛情に欠乏し、幸せな人間は一人もいなかった。



アタック

 数日後、結弦は忠司に本当の煮物のお弁当を持ってきた。

 ほかの女性職員にも。

 


 「すごい結弦君、料理人みたい!」

 「器用だねえ」

 「この芽キャベツと大根、めちゃくちゃ美味しい」

 


 女性職員が色めき立つ。

 あまり大ごとにするとデイケアがお祭りになってしまうので声は抑えられたが、ここではなかったら女性陣はみんな黄色い声だ。

 



 結弦は天使の微笑みで忠司に訊ねた。

 「銀野さん、お口に合いましたか」

 「ん」

 忠司はひたすら煮物をほおばっていた。

 普段野菜が欠乏しているので、生きるか死ぬかの勢いで摂取していたのだ。




 食後の昼休み、結弦は詰め所で忠司に訊ねてきた。

 「樋口さんを特別扱いしなければならない、医学的根拠って何ですか」




 忠司は野菜づくしの夢見心地から一転、面倒な話になったな、と内心がっかりしていた。

 「医師の指示だ」

 「それじゃお返事になっていません」

 「知らなくていい」




 興ざめして背を向けた忠司に、結弦が食い下がる。

 「看護師は病気と治療方針について知る権利がありますよ」

 



 誰かが割って入った。山原だ。

 「じゃあ、私が教えるね」

 「はい」

 「樋口梢は万引き常習犯なの。街から追い出すように警察に頼まれてるの」

 



 結弦は驚く様子もなく、山原に訊ねた。

 「だったら出て行けって言った方がよっぽど親切ではないですか?」

 「統合失調の被害妄想になるように工作してるの。それが警察のオーダーだから」




 山原の後に、忠司が続いた。

 「運が悪かったんだね」

 忠司は結弦が懐に手を入れるのを見た。次の瞬間、忠司は全身が蛍光水色になっていた。結弦は忠司に銃を向けていた。インク弾だ。




 「何をするんだ」

 「おれはブルーフェニックス隊員、若鷺仁。話はICレコーダーに録音させてもらった。事情聴取に協力してもらうよ」




 次にデイケアルームに悲鳴が上がった。

 「何をするの」




 女性メンバーも水色になっていた。

 銃口を向けたメンバーの渡辺はにっこり笑った。

 いつものコンピューターはウエストポーチにしまっている。

 「私は隊員、袴田マナ。騒音攻撃の記録は取らせてもらったよ」




 メンバーが騒然とする中、葛城も余裕で笑っていた。

 「おれは隊員、御門凪。あそこでカメラ回ってるよ」

 途端に障碍者メンバーが顔色を変え、デイケアの出口に殺到した。




 凪は烏合の衆のように出口に群がる加害者メンバーたちを静観する。

 彼らは部屋からの脱出を試みたが、出口はブルーフェニックスが封鎖していた。




 加害者集団は危険、異変を察知したらしいが、彼らの悲鳴は武器だ。

 使う時と、今回のように不利と考えて使わない時がある。

 それより彼らの中に、うろたえて何とかしてくれる人物を探す者が散在する。




「銀野さん、おなか痛いです。帰らせてください」

「僕、今日、お姉ちゃんが待ってるんです」

「帰らないとママが怒る」

「お母さん」





 加害者工作員は正真正銘障碍者だ。

 役者はいない。

 ただし、有田の丘病院はうつや統合失調患者を抱えることが多く、メンバーは全員重度障碍者というわけではない。

 健常者と変わりない、新宿のようなメンバーが大半である。




 しかしこの瞬間は突然発達障害の患者が増えたかのようだった。

 泣き出す芝居をしたり、お母さんを読んだりーー障害を武器に使ってる。

 いじめ加害者が捕まった後、未成年を武器に使うのと同じだ。


 

 凪は耳元に片手をあてて言った。

 「突入」



 デイケアの窓が外から粉砕され、武装集団が飛び込んでくる。

 ブルーフェニックスだ。

 彼らの物々しい姿に、加害者メンバーも職員も悲鳴を上げる。

 こういうときの悲鳴は大いに使うらしい。

 ブルーフェニックスを少しでも加害者にできるチャンスは逃さないわけだ。




 ブルーフェニックスの武器はすべてインク弾。

 騒ぐ忠司たちを無視して、ものの数分で、逃げ惑う障碍者と職員をインクまみれにする。




 忠司は言った。

 「何をするんだ」

 巨体の壮年男性隊長、雨風塔吉郎が答える。

 「組織的に樋口梢を攻撃した容疑だ」

 「そんなの知らない」

 「でもICレコーダーがあるしね」



 忠司の後ろで若鷺が微笑した。

 忠司は言い逃れる。

 「あれは冗談だ」

 若鷺が優しくうなずいた。

 「冗談かどうか調べさせてもらうよ」

 「我々に協力しないならインクは取らない」

 塔吉郎が結ぶと、武装集団がインクのついたデイケアメンバーを拘束し始めた。




 忠司が叫ぶ。

 「誰か助けて!ブルーフェニックスに犯人にされる」

 彼のは指揮でお手本。

 まっぷるメンバーが学習して騒ぎ始める。




 「犯人にされる」

 「助けて、お姉ちゃん」

 ――その後、拘束された忠司は事情聴取を黙秘で通した。

 ほかの障碍者メンバーの中には、障害をフルに乱用し、泣きわめいて通す者もいる。




 加害者メンバーは警察とメディアがかばうので、大体は無罪放免になる。

 しかし、ブルーフェニックスがやりたいのは犯罪の証拠の出てこない容疑者を捕まえることではない。

 集団ストーカー加害者を社会から隔離することだ。


蛇のあぎと

 忠司は自由になった後、何年たってもインクをつけたままだった。

 ブルーフェニックスにマーキングされた者は罪には問われないが、ブルーフェニックスに協力できない理由のある人間として一生陰口をささやかれることになる。

 けれど罪人ではない。

 



 忠司は勝利の栄光に酔いしれた。

 「私、無実なんです。一般人なんですよ」

 周囲にそう説明して、面白おかしく人生を送っている。





 ある年の四月、忠司の娘、小百合は若いうちに会社で業績が認められ、九州支社から関東本社配属になった。

 忠司と楽に連絡が取れるようになる。

 小百合はようやく孝行できると言って喜んでいた。

 



 いいことが続き、同じ年の秋、彼女は関東で優しい男性、坂本雄吾と婚約することになった。

 忠司のところに挨拶にやってきた雄吾は礼儀正しい好青年だった。





 忠司は実は模型好きで、東京に大手ホビーショップが開店したため、初日に遊びに行った。

 帰り道に山手線の駅構内を歩いていると、娘と婚約者が並んで歩いているのを目撃してしまった。




 邪魔したかったわけではない。

 幸せ続きだった忠司は、もっと幸せのおこぼれをもらえる気がして、ついついカップルの後をつけてしまった。

 しかし驚いたことに、雄吾は小百合と喫茶店に入った後、別れ話を切り出した。

 小百合は理由を問いだだし、雄吾は答えた。




 「君のお父さん、インクが付いてるね」

 「ええ、完全なるブルーフェニックスの言いがかり。お父さんは無実だよ」

 「僕、ブルーフェニックスに協力できない人の家族にはなりたくないんだ。結婚の条件は、君と君のお父さんが友の会から抜けることだ」

 「友の会なんて知らない」

 「じゃあ、お父さんがインク取ってもらうの、簡単だよ。ブルーフェニックスに協力して」




 小百合は翌日、土砂降りの中、レインコート姿で成浜市の忠司のもとに訪ねてきた。

 「どうしたんだ、小百合。電話でいいじゃないか」

 忠司はうろたえた。娘の真剣な目が怖かった。

 「お父さん、友の会を抜けて」




 忠司は直後に友の会に助けを求めた。

 「娘が、愚かな男にたぶらかされました」

 一月後、雄吾は水死体で発見された。





 事件の翌日も小百合は成浜にやってきた。忠司の自宅を訪ねると、恐ろしいほど冷静に、訊ねてきた。

 「お父さん、何をしたの」

 「私は何もしてない。彼は運が悪かったんだ」

 「じゃあ、私のお願い聞いて。インクを取って」

 忠司は彼女の両肩に手を置いた。

 「小百合、会に逆らったらだめだ。お前のために言ってるんだよ」




 10月、忠司は会に有益だった女性の入信を個人的に止めた。

 とても優しい人だったからだ。

 「あなたには他に向いた会があります」

 



 そのまた一年後、忠司は会から呼び出しを食らった。

 尋問のされ方に身の危険を感じた。

 忠司が女性を逃がしたことを知ってるのは小百合一人。

 彼は自宅に帰って訊ねた。

 「何を言ったんだ」

 「何も言ってません」

 小百合は笑って答えた。




 彼女は翌年、会の男性、和正と結婚して彼の両親にかわいがられるようになった。

 和正の実家で仲良く神社参拝が正月の恒例になったようだが、忠司はいつも仲間から外された。




 忠司は一人になった。

 別の年の9月を迎えると、身体を壊し、デイケアに通うようになる。

 デイケアたっぷるはプログラムの中で散歩とガーデニングに力を入れていた。

 体を壊している忠司には辛い。

 彼はある日、散歩についていけずに、道端にしゃがみこんだ。

 「腰が痛いんだ」




 デイケア職員が励まして彼を立たせようとする。

 「忠司さん、集団行動ですよ」

 「医療従事者が体を壊すことを強要するのか」

 「大変なのはみんな同じです。社会復帰訓練ですから」



 彼はその翌週も、散歩についていけずに、道端にしゃがみこんだ。

 「腰が痛いんだ」

 デイケア職員が彼を無理に立たせようとする。

 「忠司さん、集団行動ですよ」

 「殺される」

 「大変なのはみんな同じです」




 翌月、忠司は身体を壊しすぎて入院した。

 ある晩、枕元に死神がやってきた。

 細身長身、小悪魔的な容姿に、いかついマントを羽織り、暗い赤紫の服に、淡いオレンジと乳白色の装飾品をちりばめている。その下の素肌は淡いターコイズブルーの鱗に覆われ、みずみずしい魚のようだった。


 


「ブルーフェニックスに協力するなら、余のもとにおいで。しないなら、あちらへ行け」




 死神の反対側に、年輩の女性が立っていた。

 死んだはずの忠司の母親、真知子だった。

 「お母さん」

 忠司はベッドから這い出て、重い身体を引きずり、彼女の方へ歩いて行った。




 「聞いて。僕、何もしてないのにインクをつけられたんだ。何にもしてなかったんだよ」

 真知子は忠司を抱きしめた。彼は泣いてすがった。

 「僕、何にもしてなかった。お母さん、お母さん」




 ある瞬間、真知子の頭部が真っ二つに裂け、中から巨大な目玉のない、醜い蛇の頭が顔を出した。

 忠司は絶句した瞬間、上半身を蛇のあぎとに噛みちぎられていた。




 「お父さん」

 忠司はベッドで飛び起きた。小百合が見下ろしていた。

 「お父さん、聞いて。私、東京本社配属になったの」

 「お前は、私を捨てたのではないのか」

 「いやだ、悪い夢でも見たの? 私、来月からお父さんと連絡が取りやすくなった。いっぱい孝行するからね」

 



 忠司は小百合が新居のアパートに帰ったあと、自宅の鏡を見た。

 顔に水色のマーキングがされていた。

 わななきながらそれを触る。

 彼は安全だ。

 そして死ぬまで友の会に囚われている。








 「ナイス演技だマナ」

 仕事が終わると、凪は同僚に笑いかけた。

 「サンキュ」

 マナは特殊メイクと小百合のロングヘアを模したかつらを取って、笑顔を返した。




 凪は死神の衣装を半分脱いで、背後の隊員女性を振り返った。

 「ちまはほら、あれだ」

 「ちっちゃい言うな」

 「まだ言ってないよ」

 身長の低い屋形ちまは今回裏方。同僚、凪のフォローにぶすったれている。



カウベルが鳴ってる

 3月、ブルーフェニックス本部の庭園で桜が開花している。

 風は嵐を予感させる春風、窓がガタガタ言ってる。

 塔吉郎は仕事場の窓から見る桜絶景に昨日まで吸い込まれていた。

 昨日までは。

 今日はミャーミャー言ってる別のものから抗いがたい悪魔的な引力を感じている。




 「これで何回目だね」

 「53回目です」

 「職場は里親を探すところじゃないんだ」

 



 ブルーフェニックス第三部隊司令塔、雨風塔吉郎のデスクは、砂糖菓子のように愛を振りまいている仔猫であふれかえっていた。

 



隊員の若鷺仁は生真面目に説明した。

 「寮ではペット禁止なんです」

 詰め所の女性陣は完全に仔猫に篭絡されている。

 塔吉も実はメロメロだったが、心を鬼にした。

 「元の場所に捨ててきなさい」

 「でも守らないといけないから」

 仁が答える。

 保護欲の塊。




 凪は樋口梢援護のちのある日、塔吉郎に頼まれて被害者サポート資料を持って本部パソコンルームに向かっていた。

 梢のSNS小説は本部で有益とされ、ブルーフェニックスの応援を受けることになる。

 彼女は更なる活躍のためと、パソコンルームの自由利用を許可されていた。




 「樋口さん」

 凪がルームに入ると、彼女はパソコンをたたきながら、声を立てて笑っていた。

 何か、楽しいことを書いているみたい。

 幸福そうだ。

 凪は何だか嬉しかった。




 「樋口さん」

 もっと大笑いになった。

 「樋口さん」

 抱腹絶倒の様子。

 でも両手は休まずパソコンを叩いている。

 凪は置いていかれた気分を味わった。





 「全く俺らまで。凪は何をやっているんだ。サインしてもらうだけなのに」

 若鷺仁は袴田マナといっしょにパソコンルームにむかいながらぼやいていた。

 「ルームの空いてる時間だね。貸し切り状態だよ。二人密室で盛り上がっていたりしてね」

 「仕事中はあるみたいだけど、あいつ普段は子供だから。おい、凪」

 仁はパソコンルームを開けた。凪の代わりに虫が何匹も飛び出してきた。マナが声を上げている。




 仁が中の様子を確認した。

 パソコンルームでセミとバッタの大群が飛ぶ飛ぶ。

 それを首輪をした白猫が追いかけ、狩りにいそしんでいる。




 広い部屋の中心部にチョークで巨大魔法陣が描かれ、その上を頭にピンクのリボンをつけた乳牛が七頭、カウベルを鳴らしながら、闊歩している。




 凪は魔法陣の脇でローブをまとい、何か金の器を持って大号泣していた。

 手の込んだローブの裾の広がり方で、凪の全身のシルエットが円錐形に見える。 

 学芸会の園児の、凝った晴れ着のようでファンシー。




 マナは凪の前に歩いて行って、腰に両手を当てて問いただした。

 「正直に言いましょう。今度は何のコスプレですか」

 凪は泣きじゃくりながら説明した。

 「黒いサバト。聖杯に牛乳」




 梢の大爆笑。

 仁は梢を見た。

 一人だけ虫にも牛にも気が付かず、パソコンを撃ち続けている。

 キータッチが鬼の速さで、トーナメント方式で戦士が戦うアニメの戦闘シーンのように、彼女の指先が全く見えない。




 仁は全てを理解して凪にいった。

 「そうか。力の限りちょっかいを出したんだけど、最後まで相手にされなかったんだな」

 マナがお母さんのように注意する。

 「目立って当然と思ってるからそうなるんだよ」




 凪がむせび泣きながら聖杯の牛乳をチャージ。
 牛乳ひげをつけて、また盛大に泣く。



 マナはやれやれと肩を落としていた。
 「死神やってた時はあんなにかっこよかったのに」
 「エネルギー配分が悪いんだ。オフの時に節電、蓄電しまくってるんだよ」
 仁の解説にマナは唸った。
 「しようのない芸術家だなあ」



 仁は横目で梢を見た。
 やっぱり抱腹絶倒してる。
 エネルギー配分の悪い人がもう一人。
 きっと凪と二人で仲良くできるだろう。


(終わり)


後書き

障碍者は障碍を武器に使う、という描写に不愉快になられた方も、いらっしゃると思います。



では、健常者はどうでしょうか。障碍者が何かの被害に遭った時、すぐに信じますか?



手遅れになってから「障碍があったから、言ってること本当かどうかわからなかった」と言うのではないでしょうか。



障碍を武器に使うのは、障碍者も健常者も同じです。みんな人間です。誰が美しいと言うことはありません。



そして障碍者が障碍を武器に使うと叩かれます。未成年が未成年を武器にしても叩かれます。結束できて叩ける方は、いくら障碍者、若者を差別しても叩かれません。どちらが得をしているのでしょう。



お読みいただき、ありがとうございました。