被害者が変われば

 11月の夜。

 三十代の松田達明は今日も物差しで妻を殴っていた。

 「ははははは、いい気味! お前が悪いんだ!!」



 現場に飛び込んだレッドマンは精巧につくられたゴム弾で、達明を吹っ飛ばした。

 達明に立ち上がる隙を与えず、続けざまに足技で攻撃。

 やがて達明は泣いて謝罪した。



 レッドマンはその場を去る。

 彼は赤いバトルスーツに身を包み、深夜に法が裁かない悪を倒すダークヒーローだ。



 暴力被害相談センターダイヤリボンの16時。

 職員の八幡浩司は子供のいない四十代、バツイチ。相談室で来訪した和奏と向かい合って座っていた。

 建物の外では11月の冷たい雨が降っている。



 相談室は訪問客のプライバシーを守る、カウンセリングルームのようなものだ。

 彼女はテーブルの上に泣き伏した。

 「毎日土下座させられています」



 彼女は夫、雄二のDVで相談してきた。

 ダイヤリボンは被害者救済の実績が評価されており、普通女性が対応する場面で、男性も活躍する。



 ハロウィンと年末の間の11月はこれといった行事がないが、年末に向けて忙しいのはどこも同じ。

 浩司は仕事に追われたが、ジムでの身体作りには余念がなかった。



 彼は二十代で一番輝いてる時代のはずの、和奏のだらしない姿に同情していた。

 やせぎすの彼女は無化粧、コンビニの傘に100均のレインコート、ずだ袋みたいなカバンでやって来た。

 


 けれど、貧しいわけではない。

 見た目のメンテナンスを怠っているのだ。

 浩司は彼女の見た目を根拠に、彼女にも非があるのだと解釈して対応していた。



 浩司は相談者が自己愛をやめたら、解決することはいっぱいあるのに、と内心思う。

 どうして彼女たちは成長しないのだろう。

 


 彼は彼女を諭した。

 「あなたね、泣いてばかりいたら、こっちは助けたくても助けられないよ。人に頼ってばかりだから、加害者に勝てないんだよ」



 彼女が帰って行った後、浩司が相談室から出ると、廊下に元被害者のダイヤリボン職員がいた。

 浩司と同世代の畑中絵里奈。

 相方と協力して掲示物を張っている。



 絵里奈はカウンセラーの資格を取り、結局ダイヤリボンに迷惑をかけずに自力で被害を解決した。

 いつも笑顔いっぱいで、容姿は豊満、地中海風で魅力的。

 今日の空色のパンプスがまぶしい。

 浩司はあれが正しい被害者だと思っていた。



 レッドマンの正体は八幡浩司。昼間はダイヤリボンで活動している。




2

 ジョーカー第三実働部隊、隊員、若鷺仁はいつもの制服姿で詰め所の自分の席に座って、書類にハンコを押していた。

 仲間も着席して事務をやっている。

 



 今朝は天気が良く、他部隊の出動もなく平和だ。

 出動待機は各部隊の当番周りで、今週の第三部隊は屋内活動担当。

 相談員もやる。




 第三部隊のマドンナは包容力のある武闘派美魔女。

 仁はみんなと一緒に彼女の配った温かい小豆ドリンクを楽しんでいた。




 窓際で栽培されている柑橘系の植物は、ちょうど実が色づいたところで、いい香りを放っている。

 実が小ぶりでキンカンに似て、加工しないと少し酸っぱいと聞いている。

 マメに水やりをしている隊員がいるようだ。




 向かいの席で仁と同じ二十代の女性隊員、屋形ちまが同じハンコ作業をしていた。

 ボブカットで小柄。

 端正だが少年のような面立ちをしている。




 ちまの机の上には小豆ドリンクの他に、ペットボトル500mLが何本も立っている。

 彼女が一本を一気飲みする。

 ボトルを置くと、隣のペットボトルの手を出した。

 それも飲み干した。




 彼女が三本目を取ると、その手に誰かの手がガシッと重なった。

 彼女が相手を振り返る。

 彼女の隣の席の同世代男性隊員、御門凪だった。




 ちまと凪が睨みあう。

 その後、無言でペットボトルの取り合い。

 何でもいいから何か言え。




 ちまは健康な女性だが、あと少しで多飲と言われている。

 凪は親切心でちまを止めたようだが、説得しないで張り合ってるところが大人っぽく見えない。

 小悪魔的容姿の持ち主なのに、残念な青年だった。




 仁は小用があってパソコンを開いた。

 「凪」

 「何だ」

 凪がちまからペットボトルを強奪して返事をする。仁は告げた。

 「SOSエンジンに新規通知だ」

3

 篠田和奏は二十代後半、子供のいない専業主婦。

 夫、雄二のDV被害者だった。

 若いころ働いていたが、外出すると雄二の機嫌が悪くなるため仕事をやめた。




 再就職しようとすると社会の風当たりは強く、雄二が猛烈に抵抗するので、家の中から出られなくなっていた。




 夏と違って11月になると、炊事で手がボロボロになる。

 ボロボロというより、すでに傷だらけだ。

 知り合いから『ばあさんみたいな手だね』と言われた。

 



 家事の最中の手袋は雄二が禁じていた。

 DV加害者は被害者が自分を痛めつけるような家事をすることを望む。




 ダイヤリボンの担当職員は八幡浩司。木枯らしの吹く木曜、14時、浩司と向かい合って座って面談。

 和奏は語った。

 「一キロ太ると罰があります」

 「無視して食べればいいんだよ」

 浩司は笑顔で言った。




 翌週、和奏は浩司に訴えた。

 「経済的暴力を受けています」

 「どんな」

 「通帳を取り上げられています」

 「取り返せばいいの」

 浩司は笑顔で言った。




 翌週、和奏は浩司に訴えた。

 「暴言を吐かれます」

 「無視すればいいの」




 翌週、和奏は浩司に訴えた。

 「逆らうと出て行けといわれます」

 「甘ったれな人だね」

 「どうして暴力対応しないのですか」

 「まだ暴力かどうかわからないから」

 浩司はやっぱり笑顔だった。




 和奏は帰りに寄ったスーパーの洋菓子コーナー、真っ赤なラズベリーケーキの前でぽつねんと立っていた。

 貧しいわけではなかったが、彼女にケーキを食べる自由はなかった。




 翌日は12月の初日。

 TVで不幸な報道があった。

 キャスターは痛ましいDV事件についてこう結んだ。

 「どうして被害者が逃げられなかったのか、現在警察が調査中です」

神様のギフト

 和奏は年末のごちそうを用意するため、やりくりの大詰めを迎えたが、それは支配者のためだった。

 祭りの直前はどういうわけか町のどこもかしこも赤や金で飾られるが、和奏は下品な色だなと思っていた。




 和奏はダイヤリボンで担当を変えることを何度か試みた。

 しかし相手が誰でも同じ展開だったので、担当を浩司に戻した。

 そして暴力を訴えるのをやめた。




 彼女がダイヤリボンに向かった朝は、ただでさえ寒いのに、あいにくの曇り空。

 通り道で幼稚園児の集団散歩に出くわす。

 和奏と園児たちでは、同じ風景、気候でも受け取り方が違うようだ。

 幼稚園児たちは黄色い帽子にスモッグ姿で、寒い寒いと言ってじゃれあっていた。

 付き添いの先生たちが、「静かに」と呼び掛けて、手を焼いている。




 ダイヤリボン到着。和奏は浩司と面談した。

 「もう名前で呼んでくれないんですよ。一日中ブタって呼ばれるんですけどね、よくあることじゃないですか」

 「そうですね! よくあることですね!」

 浩司は、物分かりの良くなった和奏に嬉々としていた。




 第二月曜日、少し湿気があって不安定な日だった。

 和奏は浩二と面談した。

 「死ねって言われるんですけどね、よくあることじゃないですか」

 「そうですね!よくあることですね!! 僕のお母さんなんか、もっとすごいですよ!!」

 「どんなお母さんですか」

 「それがね!」




 第3月曜日は雨だった。

 すっかり日の沈んだ頃、和奏はダイヤリボン閉館ギリギリの時間に滑り込もうとして足早に歩いていた。




 紺のレインシューズは何年も前のもので、すでに壊れかけている。

 和奏がシューズを新調しないのは加害者に攻撃されるからというのが直接の理由だが、そうでなくても見た目のメンテナンスをしようと思わない。

 戦場の被害者に余裕は無い。




 開館時間に間に合った。

 浩司と面談。

 「毎日レイプされるんですけどね、よくあることじゃないですか」

 「そうですね!よくあることですね! 僕なんか年中妹にいじめられていますよ!」

 「どんな妹さんですか」

 「それがね!」

 浩司ははつらつとしていた。

2

 浩司は仕事帰りに習い事のヨガに繰り出していた。

 ヨガ教室は、リラックス効果があるとして、青い花や、水色のカーテンで美しくまとめられている。

 憧れの女性講師はいつも素敵だが、今日も彼のために笑ってくれている気がした。




 彼は和奏の事を考えると天にも昇りそうだった。

 人助けをすると助けられた方が助けた人を好きになるというが、実際は助けた人が相手を好きになるという説もある。

 彼は和奏を助ける時間があまりに幸福で、和奏もきっとそうだ、だから両思いだと想像していた。




 同日、和奏は帰宅後、トイレでゲーゲー吐いた。

 浩司のカウンセラーをやらざるをえなくなったからだ。

 後は雄二の作った彼女の日課で、一日三回、桃色の体重計に乗る。




 重量は激減したが、意識はまだはっきりとしているので、彼女は自宅とダイヤリボンでの被害記録をブログに書いている。

 雄二は彼女のメールとダイアリーを四六時中監視していた。

 しかし、彼女はアプリを使わず、ブログ記事を書き終えるとすぐさまログアウトしていたため、雄二にアカウントの存在を知られずにすんでいた。




 年末、ダイヤリボンの仕事納めの日。

 酷薄な冬将軍が席巻していた。

 和奏は浩司と面談。

 「一日二食しか食べたらダメって言われてるんですが、さすがにお腹が空いてね、コンビニで食パン買って帰ったら、主人に摘発されて、食べられなかったんです」

 「あははは、摘発ですか! 面白い夫婦ですね!! 聞いてくださいよ。僕のおばあちゃんもそんな感じだったんですよ」




 和奏は血が引く思いでこう返した。

 「どんなおばあちゃんでしたか」

 「それがね!」

 被害者はカウンセラーや相談員に向かって、あなたの話、興味ないとは発言できない。

 浩司にはそれがわからない。




 その時、爆音と一緒に二人の間に誰かの声が割って入った。

 「あっ、ごめんなさい」

 椅子から跳ね飛ばされた浩司は淡いオレンジの屋内清掃車に、あっさり轢かれていた。


3

 相談室に外部の清掃車なんてあるわけがない。

 突然壁をぶち破って入ってきた。

 なんという派手な登場か。




 「すみません。清掃車が暴走して!」

 清掃員の青年は二十代くらい。緑の冬装備で細見長身、小悪魔的な容姿だったが、企てがあったわけではないらしく慌てふためいていた。

 青年と和奏が協力して浩司を救出する。




 浩司が何とか身体を起こしたので、青年は被害者の彼の前に片膝をついて謝った。

 「ごめんなさい。僕ぶきっちょで」

 「%&=? 狂経▼凶教◇🎵強叫!!」

 浩司は何言ってんだかわからないくらいのキレよう。




 「すみません、すみません」

 青年がペコペコ頭を下げる

 「喝%#狂驚(喪)◎狂叫強!!」

 浩司は怒ってるだけで弱っちい人に見えた。轢かれてもすごい元気。




 「すみません、すみません、あっ」

 青年のしょっていた清掃タンクのホースの留め金が外れ、発射口が凶器のようにうねった後、浩司の顎にぶち当たった。

 浩司がさらにキレる。

 「怪⑰階■叫☆強!!」




 「すみません、すみません、あっ」

 二本目のホースの留め金も外れた。




 ダイヤリボンに救急隊が駆け付ける。

 「菌(金)☆禁筋緊■🈲%&@奴怒度!!」

 浩司は満身創痍のまま、大絶叫でキレ続けながら、タンカで運ばれていった。

 ものすごい元気だった。


4

 それを見送った清掃員が、和奏の手を引いて再び面談室に入った。

 内側からドアを閉める。

 和奏は戸惑ったが危険を感じたわけだはない。

 壁には大穴が開いているため、密室とは言いがたかったからだ。




 青年は床に背中のタンクを下ろして和奏に歩み寄る。

 「和奏さん」 

 「誰」

 「御門凪。ジョーカー隊員です。あなたは暴力を訴えるのをやめてしまいましたね。何があなたにそうさせたのですか」

 「どうして知ってるの」

 「ブログ拝読しました」




 ジョーカーは武装福祉組織と聞いている。和奏は詳しいことは知らなかった。

 「傍観者は被害者にものを教えられるのが不愉快なの。暴力の相談をすると、どこでも誰でも初日で思い込みだって判定する」

 「よく勉強したね」

 御門は和奏に優しく微笑した。




 和奏は続けた。

 「彼らに『それ暴力ですよ』って教えさせて、被害者が感動してあげるしかないの」

 「ちょっとだけタメ口いいですか」

 「はい」




 御門は和奏を黒瞳でまっすぐ見つめた。

 「何があなたにそう思わせるの」

 「いろんなところに相談して、ことごとく憎まれた」

 「憎まない人のところ、行けばいいんじゃないかな」

 「いない」




 「何がそう思わせるの」

 「誰も助けてくれないから」

 「助けなかったの、誰」

 「精神科医の沢田」




 御門は優しく訊ねた。

 「何が嫌だったのかな」

 「あんたが変われば解決するって笑ってた」




 「じゃあね、あのね、目の前に沢田をイメージしてみて。どんな顔してる?」

 和奏は沢田を想像した。彼は緑色の汚い顔をしていた。彼女は言った。

 「緑色で醜く笑ってる」

 「怖い?」

 「はい」



 「じゃあね、彼の顔に落書きしたあと、“餌をあたえないでください”って、マジックで書いて」

 「はい」

 「どんな感じ?」

 

 


 和奏は沢田の滑稽さに目を見張った。

 「馬鹿みたい……」

 「怖い?」

 「いいえ」




 御門は促した。

 「言いたかったこと言ってみて」

 和奏は沢田に向かって発言した。

 「被害者が心を入れ替えて解決するのは暴力って言わない」




 御門の声が入る。

 「それから」

 「豚」

 「うん」

 「仕事しろ」

 「それから?」

 御門は背中を押すように和奏のセリフに相の手を入れる。

 「私の人生を返せ」




 和奏は言ってから床に手をついて泣き崩れた。

 御門がファーのついたジャケットを脱いで、和奏の背に掛ける。


5

 御門は彼女のそばに片膝をついた。

 「沢田は何て言ってる?」

 「逃げればいいんだって言ってる」

 「何て言い返す?」

 「逃げたら雄二が追いかけてくる」




 御門は更に訪ねた。

 「沢田は何て言ってる?」

 「戦えばいいんだって言ってる」

 「何て言い返す?」

 「戦えたら暴力って言わない」




 「何て言ってる?」

 「加害者は無視すればいいんだって言ってるーー沢田、私の分担ばかり考えてる」




 「どう思う」

 和奏は温かい湯をぶっかけられたような気持になった。

 脳内の霞が晴れた。

 「沢田、加害者病だ。相手したらおかしい」

 御門はにっこり笑った。

 「そうだね。病気じゃない人、いるよね。必死になって沢田や八幡に食らいついてるの、大変だよね?」




 和奏は憑き物と別れて、まぶしい御門を見上げた。

 「ありがとう御門さん。あなたはお医者様ですか」

 「普通のおにーさんですよ。ジョーカーにはおれより上がいっぱいいます」




 御門が立ち上がる。和奏は続こうとしたが、しりもちをついた。

 「どうしましたか」

 「立てない」




 御門は和奏の前にかがんだ。

 「腰が抜けましたね。あなたは少し栄養を取ろう。ジョーカー本部に来ていただけますか? 静養ルームがあります」

 「はい」

 「よいしょ」

 御門は和奏を荷物のように担ぎ上げた。

 お姫様抱っこではなかったので、和奏は最後に釈然としなかった。

レッドマンの言い分

 浩司は年始の休みが明け、病院の会計が機能し始めると、あっさり退院した。

 事故のけがは出血が派手だっただけで、軽傷で済んだ。

 昼の仕事始めと同時に、深夜、レッドマンの赤い冬装備に身を包む。




 星がきらめき、残酷な寒気の冴えわたる中、彼は窓を割ってDV現場に飛び込んだ。

 加害者をゴム弾で攻撃して泣いて謝るまでぶん殴る。

 その時だった。




 「HIレッドマン!」

 「誰だ」

 「おれは凪。時間の神だよ」

 青年はレッドマンに続いて、窓から現場に入ると、レッドマンと手負いの加害者の間に立って微笑んだ。




 二十代くらいでレッドマンと同じ冬装備。

 神というより美しい悪魔のような容貌で、シルバーと淡紫ーーヘリオトロープの衣装にマントを羽織っていた。

 ユニセックスなスタイルの髪に、女性がするように大ぶりの花飾りをつけている。




 レッドマンは凪とどこかで会ったような気がしたが、いつだったか思い出せなかった。

 驚いている間に、黒装束の人物が凪に続いて数名現れ、一瞬にして被害者をさらって行ってしまった。




 凪は言った。

 「おれも深夜に法が裁かない悪を倒している。レッドマンと手を組みたいんだ」

 「なるほど。面白いな」




 凪はパチンと指を鳴らした。

 舞台が変わって、二人は一軒家の前にいた。

 窓から30代くらいの夫婦が見える。




 男性の方が女性を虐待していた。

 凪は言った。

 「被害者は友田優里恵。DV現場だ。レッドマンはどう対処する?」




 レッドマンは現場に飛び込んで行った。

 ゴム弾で加害者を攻撃する。

 「お前が悪いんだろ!! 被害者は悪くないじゃないか!! 恥ずかしい男だな!!」




 レッドマンは仕事を終えた。

 凪と二人で一軒家を後にした。

 凪はマントの中にサーモンピンクのタブレットを仕込んでいて、それを開いて眺めながら歩いていたが、ある時声を上げる。

 「あっ、駄目だ―」

 ベルトのバックルがお釈迦になった時のようなアクション。




 レッドマンが訊ねる。

 「何が」

 凪はタブレットから目を上げ、レッドマンを振り返って言った。

 「優里恵さんが報復に遭って死んじゃった。お前のせいだよ」


2

 レッドマンは絶句した。

 凪がタブレットをマントにしまう。

 「やり直しだ」




 レッドマンは答えた。

 「だって被害者はもう死んでるし」

 「オレは時間の神だから、死は取り返しのつかないものじゃないんだ。今度は被害者と話しなよ」




 優里恵が攻撃されてる時間に戻る。

 レッドマンは飛び込んで行って釈然としなかったが、加害者は傷つけず、優里恵をさらって家から脱出した。

 彼女は感謝もしない礼儀知らずで、めそめそ泣いていた。

 レッドマンは通り道の街灯の下に彼女を降ろした。

 「あなたね、泣いてばかりいたら助けたくても助けられないよ。どうして助かろうとしなかったの」




 すると凪が現れてレッドマンを蹴飛ばしてくる。

 「仕切り直しだ」

 レッドマンは面食らった。

 「どうして。いいところだったのに」

 「俺が支配者だ。従え」

 凪の殺すような冷たい目と、どすの利いた声。




 舞台は簡素な住宅街。

 大きな常緑種の街路樹がアーチを作った通り道だ。

 街のネオンが光っている。

 「今度の被害者は三十代の吉田かおり。レッドマンはどう対処する?」

 凪はそう言って吹雪になって姿を消した。

 



 街灯の下のレッドマンのところに、女性が淡い赤紫のワンピースで走ってくる。

 「レッドマン、助けて。DV被害に遭いました」

 「外傷は」

 「ありません」




 レッドマンは被害者と話すことは大事だと思っていた。

 彼は尋ねた。

 「どんな暴力?」

 「泣いてると泣いてるからと攻撃します。泣かないと泣かないからと攻撃されます」

 「攻撃って身体的暴力なの?」

 「違います」




 「それじゃわかんないよ」

 「どうしてですか」

 「あなた、外傷はないし、その上泣いてないじゃないか。冷静過ぎて、被害が本当かどうかわからない。助けたくても助けられないよ」

3

 すると街灯と辺りのネオンがはたと消え、周囲は暗転した。

 レッドマンが戸惑っていると、もう一度街灯がつき、ネオンも通常通りに復活する。

 かおりは消えており、レッドマンの前に凪が立ってる。

 「あれ? かおりさん?」

 「はい、ここです」

 凪は答えた。




 レッドマンは耳を疑う。

 「かおりさん?」

 「はい、吉田かおりです」




 レッドマンの前に立っているのは凪なのだが、彼がかおりだと言ったらかおりになる。

 レッドマンは甘い熱夢から逃れられなくなった。




 “かおり”はレッドマンに言った。

 「本当は助ける気ないでしょう?」

 「あるとも」

 「どうして今、助けないの」

 「美しかったら助けてあげるよ」

 「あなたは醜い」




 レッドマンはかおりの裏切りに、爆発的な憎悪を覚えた。

 鼻で笑って制裁する。

 「ああ、そういうこと言うんだあ! それじゃやられて当然だよね! あなたがどういう人かわかっちゃった。そんなだったら助けないから苦しみなさい!」




 かおりは反省したようだ。

 「ごめんなさい。助けが必要です」

 レッドマンは復讐心で燃え上がった。

 現状に感謝せず、不満を垂れるかおりをやっつけることに快感すら覚えた。

 「じゃあ、土下座しろよ。土下座あ!! こんなに心配してるのに、恩をあだで返しやがって、土下座だあ!!」




 “かおり”はレッドマンを睨みながらゆっくりと跪き、頭を下げた。

 レッドマンは高らかに哄笑する。

 「勝った!! 醜い被害者に勝ったあ!!」


4

 パコタの黄色い街並みのポスターが視界に飛び込んできた。

 浩司は自宅に部屋着姿で立っていた。

 洗濯したばかりの赤い防寒靴下が角ハンガーに吊されて、ヒーターの風で踊っている。

 浩司は不思議に思ったが、夢だったにしてもいい気分だった。

 「やられる方にも問題があるんだ。本人が悪いんじゃないか」




 浩司が気配に気づいて振り返ると、二十代くらいの青年が部屋の隅の壁に背を持たせて立っていた。

 青紫のローブをまとっている。

 「誰だ」

 「魔導士」

 彼は答えた。




 容貌は天使のようで、魔導士より聖職者の方が合っていたのではないかと思えた。

 浩司は気が付いた。

 夢はまだ終わっていない。




 魔導士は浩司に訊ねた。

 「どうしてダイヤリボンで働いてるの」

 「弱者を助けるためだ」

 「どうやって」




 浩司はわからずやの魔導士に言ってやった。

 「知識を教えてあげるんだよ!! 体を張るばかりが全てじゃない。ダイヤリボン職員は頭脳型ヒーローなんだ!!」




 「あなたが被害者に指導してたの、知識じゃないよ。知識で助けてあげるための条件だったよ」

 「違う」

 「加害者も傍観者も同じ」

 「違う! 傍観者は加害者と違うことができる。おれはヒーローだ!」




 魔導士は透き通った黒瞳で浩司をまっすぐ見た。

 「本当?」

 「本当だ」

 「わかった」

 魔導士はくるりと一回転すると忽然と消えてしまった。

オレンジの魔法

 同じ月の火曜日朝。

 魔導士の仕事を済ませた仁は、いつもの制服に戻って仕事をしている。

 第二部隊の救済したDV被害者、松田里穂の容態が安定したと聞いて安堵していた。

 ジョーカーはシェルターを多く有している。

 里穂は今後そこで静養することになる。




 彼は午後に本部相談室で和奏と向かい合って座り、話を聞き始めた。

 彼女もまた、本部女性陣の助けで小綺麗になり、少し元気を取り戻している。




 普通は仁ではなく、女性が対応する場面だが、和奏は仁が凪の仲間だと聞いて心を開くようになっていた。




 二人ともハーブティーで温まっている。

 ティーカップに注いだ時は真っ青だが、レモンを入れると赤紫やマゼンタに変わるものだ。




 飲み終わると、仁は和奏に協力を頼んで、ティーカップの乗ったテーブルを壁際に寄せる。部屋の中央は椅子だけになった。


 


 仁は椅子を寄せて、和奏と並んで座る。

 完全な向かい合わせや真横ではなく、彼女の顔が見える、斜め横。




 仁が誘導すると、彼女は語った。

 「食べると食べるなって攻撃される。食べないと食べろって攻撃される」

 仁は和奏の許可を取ってタメ口となる。

 「どうしたらいいと思う」




 和奏は答えた。

 「逃げる」

 「うん、逃げたらいいよね」

 「追いかけてくる」

 「何がそう思わせるの」

 「今までそうだったから」




 仁は彼女を促して立ち上がる。

 立位の和奏の傍らで言った。

 「じゃあね、目の前に雄二をイメージしてみて。どんな顔してる」

 「不機嫌な顔」

 「彼に何て言いたかった?」

 「もうほっといて」

 「何て言ってる?」

 「自立したいなら条件がある」

 「何て言う?」




 雄二の方を見ていた和奏は困ったらしく、仁の方を向いた。

 「言い返せない。自立しないといけない」

 「座りましょう」

 「はい」




 仁は和奏と並んで座り、訊ねた。

 「何がそう思わせるの」

 「働いてないから」

 「家の中でいっぱい働いてるでしょう」

 「働いたことにならないの。お金を持ってこないと」




 仁は優しく訊ねた。

 「じゃあ、外で働いてみる?」

 「できない」

 「何がそう思わせるの」

 「自立には条件があるって言われる、あ」




 和奏は何かに気づいて息を飲んだ。

 「どうしたの」

 彼女は力が抜けたように肩を落として言った。

 「自立しないなら条件があるって言われるーー」

 「ダブルバインドだね」

 「何やっても気に食わないんだ。私、嫌われてた」


2

 仁はうなずいた。

 「どうする」

 「働けないから逃げられない」

 「働いてなくても、離婚しなくても自由になれるよ」

 「どうやって」




 びっくりしている彼女に仁は尋ねた。

 「何が苦しいの」

 「働いてないからって注文される」

 「家事やってるよね」




 和奏は説明した。

 「働いたことにならないの」

 「じゃあ、外で働く?」

 「それも働いたことにならないの」

 「どうして」

 「男性と対等に稼がないと」




 仁は笑顔で提案した。

 「じゃあね、あなたのIQって凄いと思うんだ。ブログで公開してるあの小説、製本化して稼ごうよ!」




 彼女は乗っては来なかった。

 「それも働いたことにならないの」

 「どうして」

 「彼と同じサラリーマンになってコツコツ働くのが、本当の仕事なの」




 仁はうけあって笑った。

 「じゃあ、企業に就職してコツコツ、働いてみようか」

 「それも働いたことにならないの」

 「何がそう思わせるの」

 「新卒の時に就職して上司のいじめの洗礼を受けていないのは働いたって言わないの」

 「それどう思う」




 和奏は自分の思考癖に気が付いたようだ。

 びっくりして仁に語った。

 「彼、働いたことにならないって言ってないと、注文できないのーー」

 「そうなの?」




 和奏は羽化したばかりの雛のように、新しい世界を見ていた。

 「ああーー、お願いできない人なんだ。本当に私が働いてないわけじゃない。私、あの家では、働いたことになってはならない人だった」

 仁はにっこり笑いかけた。和奏は放心状態のあと、かすかに笑った。


3

 彼女のカウンセリングはまだ序盤だ。

 一万分の一も終わっていない。

 翌週金曜14時、仁はシェルターで静養している彼女のもとを訪れた。

 彼女は今まで通り地味な部屋着姿だったが、心境の変化があったのか、靴下だけは結構大胆なオレンジをはいていた。

 そして似合っている。




 仁はうれしく思った。

 「そのオレンジ、とても素敵です」

 笑いかけると、彼女は戸惑って礼も言えないくらい照れていた。




 彼は続けた。

 「お願いがあって参りました」

 「何でしょう」

 「ダイヤリボンに行ってほしいのです」




 和奏は片手をほほに当てて、首を傾げた。

 「でも、もうジョーカーで事足りてるし」

 「あちらを更生させる必要があります。和奏さんにエージェントの依頼をしたいのです」

 「何をしたらよろしいですか」

 「今までと同じ相談をしてください。特に台本はありません」




 仁が詰め所に戻ると、凪が隅っこで膝を抱えて陰気に体育座りしている。

 「お前、一体どうしたんだ」

 「死にたい」

 「何でそんなことになったんだ」




 凪の傍らに、同世代女性隊員、袴田マナが立っている。

 豚のしっぽみたいな短いポニーテールがトレードマーク。

 今日は藤色のシュシュで飾っていた。




 彼女が説明する。

 「シナリオ通りに浩司に土下座したら屈辱だったみたいで」

 「自分で書いたシナリオじゃないか」

 仁はあきれたが、凪の話を聞くことにした。

 相手の前に片膝をつく。

 「どうして死にたいんだ」




 凪は死んだ魚のような目をしている。

 「自分やられてばかり。死ねばいい」

 「お前に危害を加えたのは誰だ」

 


 

 凪は沈黙する。

 仁は凪の肩に手をかけた。

 「ちょっと来い」




 第三部隊隊長、壮年の雨風塔吉郎はとにかくでかいと有名だった。

 部下は気を遣って優しそうとか、眉毛が凛々しいとか言ってくれるが、イケメンというわけではない。

 かわいい部下に囲まれて幸せだと思っている。




 この日、塔吉郎は本部の廊下を、書類を持って歩いていた。

 黄緑の鳥の絵が飾ってあるお仕置きの間の前を通りかかる。

 部下が集まってざわついていたので、彼もそこに歩み寄った。

 閉ざされた部屋の奥から、誰かの「死ね、死ね」という大絶叫が聞こえる。

 塔吉郎の知ってる声。




 部下が耳打ちしあっている。

 「おい、あの二人、お仕置きの間で何やってんだ」

 「二人?」

 塔吉郎が問うと、男性部下の一人が答えた。

 「仁と凪です」




 塔吉郎は沈黙した。部下の中の若い女性隊員、袴田は部屋の前でモジモジしている。

 隣の屋形は無表情だが、ふんふん鼻息が荒い。




 お仕置きの間の名称は女性ボスが趣味でつけたもので、事実は多目的ホールだ。

 しかし隊の女性陣が『お仕置き』から何を想像してるのかわかって、塔吉郎は他の男性部下と一緒にげっそりした。




 その時、部屋の入り口を跳ね飛ばして凪が出てきた。

 走る直前の大型猫のような目つきで、不敵に笑っている。

 ――その奥では、仁が一息ついて首と肩のストレッチをしていた。

傍観者の崇拝

 2月の寒空の下、メアリーは夫、ジョージの暴力から逃げた。

 ジョージは彼女を追いかけて捕まえては逃げないように何度も殴っていた。

 それでもメアリーは逃げた。

 殴打で顔中ボコボコになっても逃げた。

 とうとう彼女の前に初恋の幼馴染が現れ、ジョージを倒し、メアリーと結ばれるーー。




 浩司は昼の仕事から帰宅後、パコタの写真ポスターが貼ってあるリビングで、アイストールの映画を見て泣いていた。

 何度も逃げたメアリーがハッピーエンドを迎えて、安堵していた。

 



 そうだ、被害者は自力で逃げればいいのだ。

 ハッピーエンドはやるべきことをやった女性にふさわしい。


 

 

 彼の正面のテーブルの上のディナーはアイストールの手作りパスタ。

 アイストールは西洋の小国で、ギリシャ、ローマに次ぐ歴史の深い国だ。

 地中海に面していて食べ物がおいしいので有名。

 パコタは首都である。




 浩司は食後のテーブルでさらにアイストールのコミックを読んだ。

 ヒーローがみんな知的でクールガイ。

 レッドマンはアイストールヒーローの影響を受けている。




 ある時、手が滑ってコミックをテーブル脇の本棚と壁の隙間に落としてしまった。

 浩司が手を伸ばして拾うと、コミックが誇りまみれの写真とぐちゃぐちゃになって出てきた。




 「何だ、父さんかよ」

 出てきた昔の写真に浩司の父親、高志がしかめっ面で映っていた。

 「相変わらずこわもてだなあ」

 浩司は写真をテーブルの上に置いて、ナムナムと両手を合わせた後、黄色いくず籠に捨てた。

2

 翌日、出勤後、浩司は和奏と面談した。

 その日は雪で、和奏はやってきた時、震えていた。

 けれど、浩司も相談室のぬいぐるみも、赤い縁取りのカレンダーも和奏を応援している。

 そのことがわかったのか、面談中、彼女は笑った。

 「食べ物の作り置きを禁じられてるんです。三食作れって。本当に困っちゃいますよね」




 浩司は張り切って答えた。

 「本当に困っちゃいますね! アイストールパスタ作って食べたらどうですか。僕、美味しいレシピ知ってますよ」

 「料理好きなんですか」

 「料理というよりアイストールが好きなんです。もはやマニアですね。僕、留学したことがあるんです」




 浩司は思い出に浸ってうっとりした。

 和奏は訊ねた。

 「楽しかったですか」

 「ええ、本当にアイストールはいいですよ! 日本と同じに海に囲まれて。食べ物がおいしくて! 住民はみんな素敵で! 僕のお父さんはアイストールの良さが今一つわからなかったみたいですが」




 「どうしてそう思うのですか」

 「頑固な人でね、死の間際まで『アイストールを好きになりすぎるな』って言ってね」

 「祖国を忘れないでっておっしゃっていたのですね」




 浩司は息を飲んだ後、我慢できなくなって、堰を切ったみたいに泣いてしまった。

 「お父さんは僕の事、否定ばかりしてるのかと思ってた」

 「いいえ、あなたが祖国を忘れないか、ご心配なさっていたのです」

 浩司は胸を撃たれ、大号泣した。初めて父親の愛がわかった。




 彼はその日、仕事を終えて、踊り立つような足取りで帰り路を歩いた。

 「篠田和奏さん、篠田和奏さん、なんて素敵な人なんだろう。和奏、和奏、なんて素敵な名前なんだ。ああ、僕は和奏さんに会うために生まれたんだ。きっとそうだ」




 恋愛感情とはちょっと違うのだが、浩司は和奏に夢中になっていた。

 帰宅後、リビングのくず籠の中から高志の写真を救出する。

 何もかも上手くいって幸せだった。

3

 二月中旬の朝、冷たい風の中、和奏はコートをかき寄せてダイヤリボンに向かった。

 頭上で渦巻く朝の曇天は、何か生き物めいて見えた。

 本館に入り、浩司と向い合って座って面談。

 


 誰かの気まぐれだろうか。

 相談室のカレンダーは先日まで赤い縁取りをしたものだったが、今日は淡い紫とサーモンピンクのものに変わっており、女性的で繊細な水彩で若い聖職者と神様が描かれている。




 和奏は浩司に語った。

 「トイレに行っちゃだめって言われています。家の中ではおむつです」

 彼は明るく笑った。

 「えー、そうなんですか? 困っちゃいますね!」

 その時、突然照明が落ちた。




 窓があると思ったが、全てブラインドが下がっているようだ。

 和奏は誰かが自分の身体を抱えて稲妻のように移動するのを感じた。

 照明が付くと彼女は青年のたくましい腕に抱かれて、部屋の隅に立っていた。

 青年の肌は絵画の中の若い聖職者のように透き通っていた。




 「若鷺さん」

 「静かに。後はうちの御門凪が引き受けます」

 和奏は自分の代わりに、浩司の前に出現した人物に気が付いた。

 女性の和装に近く見えたが、着ているのは細身長身、若鷺と同世代の男性。

 紅もささずに華麗に着こなしており、不自然な女装と違って、性別を超えた存在に見えた。




 浩司の方も停電に虚を突かれて、立ち上がってしまったらしい。

 和装の人物に尋ねている。

 「篠田さん?」

 「はい、篠田和奏です」




 浩司は何の違和感も主張せず、男性の和奏と平気でやり取りを始めた。

 本物の和奏は耳を疑った。

 「嘘でしょう?」




 若鷺が説明した。

 「凪のターゲットは凪から逃げられなくなる。浩司は、もう僕やあなたの事が見えません」




 和奏は自分の唇の中で、魔法使いの名を反芻した。

 「凪。御門凪――」

マジックミラー

 浩司は自分の目をこすった。

 正面の和奏はいつもと違って、男性ほどに背の高い人物だった。

 大量の頭髪に収穫されたばかりの穀類の穂を編み込み、装飾をちりばめ床まで垂らしている。




 裾を引きずる暗い深緑の着物は、パステルライムグリーンとペパーミントグリーンの絵柄で彩られている。

 明るいがきつすぎない山吹の巨大な前帯を花魁のように締め、ガラスの装飾品は優しい桃色。



 しかし着物より髪の毛のインパクトの方が大きい。

 量は多くても不潔な感じはせず、別の次元から来た豊穣の女神のようだ。




 浩司があたりを見回すと、舞台は相談室ではなかった。

 荒れ野の中に穀類の蔓や穂が絡みついたパイプ製の椅子と机があり、女神がその傍らに立っていた。

 「はい、篠田和奏です」




 それが真実である理由を探す方が難しい状況だった。

 しかし、相手が和奏と言ったら和奏になる。

 浩司は会ったこともない和奏の黒瞳に吸い寄せられ、甘い熱夢に支配された。





 和奏は泣いていた。

 「知識をください。困っています」

 浩司はいつもの十八番を繰り返した。

 「あなたね、泣いてばかりいたら、こっちは助けたくても助けられないよ。人に頼ってばかりだから、加害者に勝てないんだよ」

 「あらそう。わかりました」

 



 和奏はけろりと泣くのをやめた。

 浩司は不愉快になった。

 やっつけ仕事の気持ちになって訊ねる。

 「それでどんな被害なの」

 「通帳を取り上げられています。一日二食、家の中ではおむつ。トイレに行くことを禁じられています」




 「わかんないんだよね」

 「何がですか」

 「被害者ってそんなに冷静じゃないんだよ。本当に被害に遭ったのだったらみっともなく泣いてみせろよ」

 「わかりました」

 



 和奏は顔を覆って号泣し始めた。

 浩司は不愉快になった。

 和奏は顔から手を離して言った。

 「泣きました。悲しいです。これで対処してくれますか」

 「あなたね、泣いてばかりいたら、こっちは助けたくても助けられないよ。人に頼ってばかりだから、加害者に勝てないんだよ」

 「あらそう。わかりました」

 



 和奏はまた泣くのをやめた。

 浩司は悔しくて歯ぎしりを始めた。

 不安定になる。

 「それじゃ対処したくてもできないよ」

 「何故ですか」

 「だって今度は男性の言いなりの“ロボットみたいだもん”。こっちは対処したくてもできないよ」


2

 和奏は尋ねてきた。

 「今度はどうしたらいいですか」

 「考えろよ」

 「わかりません」




 浩司は他人にぶら下がるしか能のない、心根の醜い若菜に憎しみを感じた。

 「お前ってそういう奴だよ。おれは被害者の全てを知っている」

 「どうしたらいいですか」




 浩司は笑った。和奏に勝ったと思った。

 「笑えよ」

 途端に、和奏は狂ったみたいに笑い始めた。

 浩司が凍り付く。

 和奏はそれでも笑い続けた。

 浩司は動転して叫んだ。

 「貴様あ! 馬鹿にしてんのか!」




 浩司の足元から、さっきまでどこにもいなかった黒鳥の群れがけたたましく飛び立った。

 浩司はたまらず袖で顔を覆う。




 鳥が全部去ってゆき浩司が腕を下ろすと、和奏はうつむいて両手で顔を覆っていた。

 泣いている。

 顔から手を離すと、幽鬼ーーいや、妖怪のような瞳で、すがるように浩司を見た。

 「ごめんなさい。馬鹿にしてません。今度は女性がどうしたら対処しようと思いますか?」

 浩司は戦慄した。

 「な、な、泣いてたら、何も始まらないよ! それじゃこっちは助けたくても助けられないよ!」




 和奏は浩司の前に一歩踏み出した。

 挑むような艶やかな眼をしていた。

 「じゃあ、どうしたらいいの」

 「笑えよ! 笑って見せろよ」

 和奏は迷うことなく、けたたましく笑った。

 「わぁぁぁぁぁ、違う! 違う! こんな被害者、認めないぞ!!」

 浩司は乱心して懐に手を入れ、次の瞬間、ゴム弾を発砲していた。

 気が付くと銃声がやみ、誰かがトリガーを抑えていた。

3

 「誰だ」

 「僕は若鷺」

 浩司が正気に戻ると、壁にゴム弾の跡があった。

 負傷者はゼロ。




 浩司は若鷺とどこかであったような気がしたが、いつだったか思い出せなかった。

 若鷺は和装ではない私服。

 浩司からゆっくりと銃を取り上げ、自分の懐に収めた。

 そして浩司をまっすぐに見つめてきた。

 細身長身で、聖母のような瞳と深夜の大型猫まで恋に落としそうな容姿。




 若鷺は浩司に尋ねた。

 「あなたは何を恐れているの」

 浩司は聖母にすがるように訴えた。

 「女性が! 女性が手段を選ばずしがみついてくる! 女性に依存される! 支配される!」




 若鷺は穏やかな表情だったが少し首を傾げた。

 「手段を選ばず? あなたが女性にその手段を取らせたんだよ」

 「できないように注文してるんだ。全部こなす女性は化け物だと思う」




 若鷺は最初聖母のようだったが、だんだん父性的な瞳をするようになった。

 「虐待の被害者は助かるため何でもやるよ。土下座しろって言ったら3秒でするし、喜びを表現しろって言ったら、飛んだり跳ねたりするよ。あなた最初、それに味をしめた。なのに、途中からそれが怖いの?」

 「怖い。相手が要求通りだったら、次は自分が相手の要求通りにする番だ」




 若鷺は子供に付き合うお父さんのように訊ねた。

 「何が嫌なの」

 浩司が訴える。

 「要求を聞くのは嫌だ。要求する一方がいい」

 「自分の番が回って来るのが怖いの?」

 「そうだよ。だから相手ができない要求を必死で考えてるじゃないか。考えれば考えるほど、次に回ってくる自分の分担が巨大になる! 助けて!」


4

 その時、浩司は豊穣の女神の声を聞いた。

 「あなたの中の正しい被害者は、冷静なの?」

 浩司はそちらを見た。女神は続けた。

 「泣いてるの? 笑ってるの? ロボットみたいでなくて? あなたを馬鹿にしていないんだね。それは一般に、お母さんと言うんだ」




 浩司は首を横に振った。

 「違う」

 女神は浩司の前に一歩迫った。浩司より高身長だが、浩司は女神がもっと大きく見えた。

 「あなたは被害者にお母さんの仕事をさせた」

 「違う! 助けようとしたんだ」




 浩司は叫んだが、女神の射貫くような瞳に貫かれた。

 この時点で女神は和奏を名乗らなくなる。

 女神は浩司に訊ねた。

 「どうして無条件で信じなかった」

 「暴力が本当かわからなかったから」

 「本当かどうかは加害者に聞け」

 「加害者は無実だって主張するに決まってる」

 「決まったかどうか、行動しないとわからない」




 浩司は困って女神に説明した。

 「ダイヤリボン職員は、加害者と接触したり、暴力の証拠を取る仕事をしていないんだ」

 「何の仕事をしてるの」

 「被害者に情報提供」




 女神は首をかしげて訊ねた。

 「証拠がなくても提供するの?」

 浩司がうなずく。

 「もちろんだ。警察じゃないからね」

 「どうして和奏さんに情報を渡さなかった」

 浩司は自分のセリフの矛盾にはたと気が付いた。

 「被害が本当かわからなかったからーー」




 女神はえぐるような目で訊ねてきた。

 「どうして」

 「証拠がない」




 女神はどすの利いた声で訊ねた。

 「証拠がなくても情報提供するんじゃなかったのか」

 「だって暴力かどうかわからなかったから」

 「理由は」

 「証拠がないから」

 「じゃああんたが証拠をそろえろ」




 浩司は出来ることと出来ないことをわかってもらおうとして必死になった。

 「ダイヤリボンはそういう仕事はしていないんだ」

 「被害者の分担を考えるなら情報提供しろ」

 「だって被害が本当かわからなかったし」

 「理由は」




 浩司は女神に睨まれ、できない理由を訴えた。

 「証拠がない」

 「状況証拠はそろってた」



 

 浩司はできない理由を訴えた。

 「加害者の意見を聞いてない」

 「じゃあ聞けよ」

 



 浩司はできない理由を訴えた。

 「無実を主張するに決まってる」

 「どうしてそっちは無条件で信じるんだ」



  

 浩司はできない理由を訴えた。

 「仕方がないんだ」





 浩司は面食らって途方に暮れていた。

 気が付くと顔を張り飛ばされていた。

 相手は和奏でも豊穣の女神でもなく若い男性。

 輝くばかりの容姿で、髪に大量の穀類の穂を編み込んでいる。

 男神は言った。

 「ジョーカーはそれでは済まさない。今度はあんたが女性に代わって、死ぬほど解決を考える番だよ」




 浩司は直後に突入してきたジョーカー私服部隊に囲まれ、つかまった。

 彼らはめったに実弾を使わないと聞くが、今回は殺傷用の銃を威嚇に使ってきた。

 浩司が武器を持っていたからだ。




 浩司はジョーカー横浜本部に連れていかれ、レッドマンの活動について尋ねられたが、それはまた別の話。

 同時進行で、被害者の相談に乗っている時、なぜ死ぬほど相手の分担を考えたのか、勉強することになる。




 発砲の責任を取ったのはその後だったが、刑は比較的に軽かった。

 浩司は女神と聖母に出会った半年後、小用で面会したジョーカーの女性隊員に訊ねた。

 「どうしてですか」

 「ジョーカーは教育した人材をみすみす捨てません」

 彼女はウエーブヘアを後頭部で編み込んでまとめた年齢不詳の美魔女で、優しかった。


エピローグ

 数年後、和奏はジョーカーでアダルトチルドレン回復カウンセリングとシェルターを卒業し、美容師として働いていた。




 ある春の朝、ジョーカーで世話になった御門凪が私服で彼女のところへやってきた。

 何だか嬉しそう。

 「今週末、花見に行くんです。カットお願いします」

 和奏は笑顔で返した。

 「はい、カットですね」





 御門はさげていたカバンの中から封筒を出して、和奏に渡した。

 「それからこれ、相談員の友田さんの手紙あずかってきました」

 「まあ、ありがとうございます」




 御門はにっこり笑った。

 「再婚したんだって」

 「へーっ」

 「同じシェルターOBの吉田さんがウェディングドレス作るそうです」

 「あら素敵!」

 「セットに入る前にトイレ借りていいですか」

 「どうぞ」




 和奏が封筒をしまい、御門がトイレを借りる。

 店から客が二人出てゆき、和奏は一人になった。

 すぐ新しい男性客が来店する。

 「いらっしゃいませ」

 サングラスの客は懐から刃物を出した。

 「金を出せ」




 和奏は鏡の前に座った御門の髪をカットしながら訊ねた。

 「電話しなくていいんですか」

 「後でします。現場検証始まると髪の毛、切れないから」

 「散髪の後だと、現場が変わると思うんですが」

 「もみ消す」




 部屋の隅の椅子に、ガムテープでくくられた強盗未遂犯がうなだれていた。

 御用にしたのは御門。

 御門はご機嫌で和奏に説明した。

 「休みの日に福祉や治安維持に貢献すると、お小遣いが出るんです」

 「そうなんですか」

 「今夜は焼肉だ」




 犯人が何か言いかけた。

 「悪気はなかっ」

 「や・き・に・く!」




 御門は満面の笑顔。

 ディナーの事で頭がいっぱいのよう。

 「ほんのできごこ」

 「や・き・に・く!」

 「わる」

 「や・き・に・く!」

 犯人が号泣し始める。

 「うえええええ、全然聞いてくれないよう」




 その時、店に和奏の知り合いがもう一人入ってきた。

 「凪、ここにいたのか」

 「若鷺さん」




 御門と同じ私服の若鷺は同僚に言った。

 「隊長から急な呼び出しだ。怒ってる。今度は何をやったんだ」

 「わからない」




 若鷺は全くとあきれてから、くくられた犯人を見つけた。

 「この人は」

 「強盗未遂現行犯」

 「御門さんが捕まえました」

 若鷺の問いに御門と和奏が説明する。

 


 

 若鷺が犯人の肩に手を置いた。

 「それでこの人、何でこんなに濡れそぼってるの」

 「御用にしたら泣いたんだ」




 御門の説明を聞いて、若鷺は両手を腰に当てて犯人に『めっ』の顔をした。

 「捕まって後悔するくらいなら犯罪未遂なんかするな」

 犯人が泣きじゃくりながら、激しくかぶりを振る。

 何か違うことを言いたいらしい。




 若鷺は手際よく店の備品のティッシュを取って犯人の鼻に当てた。

 「はい、チーンして」

 ぶぅぅぅぅぅぅぅ……。

 犯人が従順に鼻をかむ。

 若鷺が保育士みたい。




 和奏が仕事を終えると若鷺と御門が警察を呼び、彼女の代わりにもろもろの手続きをやってくれた。

 強盗未遂犯は自己紹介するチャンスもなく、別れのテーマソングが似合う牧場の牛のように、連行されて行ってしまった。

 



 夕方、彼女は玄関口でジョーカー隊員と警察を見送りながら、結婚式に着ていくドレスについて考えていた。

 玄関前の二分咲きの桜が、期待に胸を膨らませている。


(終わり)