私は全《旅の前夜》

1,ケースワーカーの暴力

 二月、凍てつく冬の昼下がりだった。

 北崎ゆかりは相談室近くの一階ロビー売店前で皐月と話すことになった。



 二人の前を、おしゃれ外来患者が冬装備と青紫のヒールで通り過ぎる。

 髪を結いあげ、雪の結晶を模した飾りをつけていた。



 六階病棟に入院中の古藤皐月は、病衣に男物のフリース、レッグウォーマー、裸足に汚れたスリッパのいでたちだった。




 「保護者から虐待を受けています」

 ゆかりは皐月に答えた。

 「状況証拠がそろってるのは知ってますよ」

 


 「どうして助けてくれないのですか」

 「お兄さんには何か理由があるはずなんです。まだ暴力と決まったわけじゃありません」



 ゆかりは美奈川県成浜市有田区の精神科、有田の丘病院、相談室に勤務するケースワーカーだ。

 患者の皐月からたびたび相談を受けている。もう何度目かわからない。



 ゆかりは体調管理と見た目には気を付けているものの、四十代の年輩で、若い皐月の忍耐力のなさに手を焼いていた。



 皐月は食い下がってきた。

 「そんなこと言ってたら殺されてしまいます。どうして被害者を信じないのですか」

 「統合失調患者の主張は被害妄想か本当かわからない。あなたが美しかったら信じてあげます」

 「ケースワーカーには知識を提供する義務があります。私はあなたが本当に対処できないわけじゃないのを知っています。

 私には暴力から助かる権利がある。知識をください」



 その時、ゆかりは皐月に対して猛烈な憎悪を覚えた。

 美しいからだ。美しく訴えろと言ったら美しく注文してきた。

 ゆかりは自分の注文に忠実な皐月に、嗅覚以外のものですさまじい悪臭を感じた。



 皐月は美しかったが、やっていることは無条件の救済の要求であり、結局はみっともなくゆかりにぶら下がっているのだ。

 状況を静観したいゆかりの心を、どんな手を使っても動かそうとしている。



 しかし、動くかどうか判断するのは、皐月ではなくケースワーカーのゆかりだ。

 ゆかりは皐月から精神的な侵害、攻撃、支配を感じた。



 ケースワーカはやるべきことをやっている人のためにしか働かない。

 ゆかりは皐月なんか殺してやろうと思った。

 


 しかしゆかりには知識がある。

 刃物で刺さなくたって、もっと残酷な殺害の仕方を知っているのだ。



 ゆかりは言った。

 「患者さんの具合が悪くなったら誰か責任を取る人が必要なんです」

 「質問に答えてください」

 「暴力の証拠がなければ、患者が保護者から逃げる道はありません」

 


 「人権侵害です」

 「考えすぎじゃないかな。皐月さん、お薬はちゃんと飲んだかな?」



 皐月はぐっと黙った。悔しそうだ。

 ゆかりはやることの汚らしい皐月に向かって笑いかけた。

 排泄した時のような爽快感があった。

 患者だから仕方ないが、皐月の被害妄想は本当に困ったものだ。


2,六月のヒーロー

 皐月は成浜市のアパートで独り暮らしだった。

 幼少期から兄、博隆のモラルハラスメントに苦しんでいる。



 二十四歳の十二月、意識がなくなり、成浜市大閉鎖病棟で目を覚ます。

 その後、有田区の精神科有田の丘病院、六階病棟に転院。

 外出禁止で苦しんだ。



 翌年二月の一階ロビー売店前。皐月は先日と全く同じいでたちで、北崎に相談していた。

 もう何度目かわからない。

 売店前のワゴンに冬の新商品として、水色がかったマシュマロのパッケージが並んでいた。

 皐月には手に入らないものだ。



 皐月は北崎に言った。

 「兄から暴力を受けています」

 「じゃあ、あなたが解決しよう」

 皐月はパニックを起こした。ロビーの外来患者たちに訴える。

 「助けて! 博隆と病院に殺される」

 ナースたちが驚愕する。

 「大変だあ!! 皐月さんが美しくなくなった!!」



 病院関係者が皐月を取り押さえ、皐月が抵抗した時に売店の商品ワゴンが倒れる。

 マシュマロパッケージが床に散乱した。

 皐月は保護室に叩き込まれた。

 「本当に被害に遭ってるんです」

 「うん、具合が悪いみたいだね」



 皐月は疲れ切って一週間後にこう言った。

 「被害は全部私の妄想でした」

 「あら、やっと美しくなりましたね! 回復したみたいじゃないですか」

 様子を見に来たナースが歓声を上げた後、皐月は保護室から出された。



 彼女が兄、博隆のモラルハラスメントについてパニックを起こしたら、人権を奪われるということだ。

 統合失調患者は美しくないと社会に殺される。



 彼女と博隆の母親は他界し、父親は母親と離婚したきり、裁判で支払う約束になっていた兄妹の養育費を踏み倒している。

 よって彼女の保護者は兄の博隆だ。



 博隆は入院中の彼女に小遣いを入れなかった。

 それなのに彼女はある時、面会に来た彼から水色のスマホを渡された。

 


 どういう風の吹き回しかと思ったら、以降、彼のメールによる支配と暴力が始まる。

 彼女は被害をブログに書き始めた。

 病院内では、諦めず被害を訴え続ける。



 同じ年の六月初旬、六階病棟。

 皐月は開放時間外の浴室前長椅子近くで、被害について長身女性ナース、山川に相談していた。



 雨期だが、この日は晴れ、廊下の窓から日の光がさんさんと注いでいた。

 窓の外に小さなカエルがヒーローのように張り付いている。

 ボディの模様もまるでスポーツウェアのようでヒーロー気取り。



 四十代後半の山川はすっかり化粧をあきらめているようだが、明るくはきはき話すキャラだった。

 山川は白い歯でヒーローのように笑った。

 「皐月さん、被害は毅然と美しく解決しましょう!」

 ぼりん。

 その時、誰かの肘鉄が山川のこめかみにめり込んだ。



 「誰」

 「ジョーカー隊員、御門凪」

 彼は皐月の問いに答えた。

 撃沈した山川の傍らに立って、皐月に向かって大型猫のように黒幕っぽく、にたっと笑う。

 「あのさ、もうちょっと頑張ってほしいんだ」



 精神科は皐月のいる六階病棟のように、患者の飛び降りを警戒して完全密閉の区画がほとんどだ。

 しかし皐月が気が付くと浴室近くのランドリールームの窓が全開していた。



 彼女の前に現れたヒーローは、ローズピンクのウエストポーチをつけ、四肢にワイヤーのようなものを巻いている。

 解放された窓にも数本ワイヤーが下がっていて、ヒーローが病院の外壁をつたってきたことがわかった。



 同じ月の、雨のしとしと降る日、ゆかりは病院一階ロビーの長椅子で皐月と並んで座っていた。

 皐月は言った。

 「兄から暴力を受けています」

 「うん、そう思ってしまうんだね」

 皐月はやはり裸足だった。



 「ゆかりさん」

 その時、二人の前に二十代ほどの若い男性が現れた。

 ゆかりが訊ねる。

 「どなたですか」

 「ジョーカー隊員、御門凪」



 御門は細身長身、小悪魔的容姿で、ゆかりを見ると黒幕のように微笑した。

 男性なのにローズピンクのレインシューズに違和感がない。

 まるでデザイナーのよう。



 ジョーカーは武装福祉組織で、シェルターを多く有している。

 ゆかりは再度訊ねた。

 「どのような御用ですか」



 彼はウエストポーチから何か薄いシートのようなものを引き出した。

 ゆかりに説明する。

 「これね、ジョーカーのマジックシート」

 「はい」

 「ケースワーカーの知識、忘れてもらうよ」



 彼は言うなり、ゆかりの頭にシートをかぶせた。

 屋内なのに、雨の歌声が聞こえた。

 ゆかりはその後の記憶がない。


3,モラルハラスメント

 ゆかりは白いベッドで目を覚ました。

 近くには白衣の医療関係者がおり、彼女にここは成浜市大病院だと告げた。

 ゆかりはすぐ閉鎖病棟だと気が付いた。

 



 彼女はケースワーカーだったが、その知識を忘れてしまっていることに気がつく。

 いくら考えても理由がわからなかった。




 その後、成浜市有田区の精神科ありたの丘病院に転院。

 ゆかりは外出禁止を課せられる。




 ゆかりは家族、親族との面会を求めたが、彼らは全員、偶然列車の事故に巻き込まれ、重傷で昏睡中と知らされた。

 ゆかりは心配でいてもたってもいられなかったが、病院から出ることは許されなかった。




 保護者がいなくて困りそうになったが、運よく生き別れになっていた腹違いの兄、青木智樹が見つかった。

 彼はゆかりと対照的に見た目に恵まれていなかったが、ゆかりは第一印象で優しそうだと思った。




 しかし、彼女の保護者を引き受けた彼は、すぐに支配的な男だとわかった。

 外出制限を受けているゆかりへの智樹からの小遣いの差し入れはゼロ。

 彼女は彼と病院側から強要され、最後に統合失調です、と自白させられた。




 十二月、夜の六階病棟。

 ゆかりは面会に来た智樹と面談室で向かい合った。

 智樹は二人きりになると態度が豹変する。

 面談室は入ったばかりだと、暖房がきくまで時間を要したが、ゆかりが震えているのはそればかりが理由ではなかった。




 ゆかりは病衣に水色のレッグウォーマー、裸足にスリッパのいでたち。

 智樹はゆかりの自宅を物色して古着のレッグウォーマーと上下の下着は見つけたようだが、見つからなかった靴下はよこさなかった。

 彼が入院中のゆかりに差し入れた衣類は、全て彼女の自宅の古着か、体格の違う智樹自身の毛玉だらけの古着だった。




 彼は仕事を理由に、ほぼ見舞いを怠っていた。

 ゆかりと違って既婚者だったが、自分の家族を妹のために使うつもりは微塵もないようだった。




 防寒具で普段よりさらにずんぐりした智樹は言った。

 「また太ったな。みっともない吹き出物作って。

 おれ、お前の顔、大嫌い。最低の顔してるな。

 またひどいアトピー顔になって。お前の努力が足りないからアトピーになったんだ。

 そんな顔じゃどこにも出せない。その顔、何とかしろよ」




 窓のない冬の面談室の青いテーブルと椅子、青いカレンダー、青い紙粘土、クリスマスの青いリース、智樹の青いスリッパーーどこを見ても血の通った気配のするものがない。




 モラルハラスメント加害者は法に抵触することはしない。

 密室で被害者をいじめ続けるだけだ。

 ゆかりは面談室から脱出する理由も見つけられず、智樹に言った。

 「兄さん、アトピーってね、一生治らないの」

 「被害妄想だね。お前ってそういう奴だよ」




 「本当だったら何て言うつもりなの」

 「そんなの知らなかったで済ませるに決まってんじゃん。おれ、自業自得のお前みたいなやつには口が裂けても謝らないからな。

 自分を磨かない怠け者って一番嫌いなんだ。とっととアトピー治せよ」




 「どうして見た目の採点ばかりするの」

 「きれいだから心配して言ってんだよ。もっと努力したらどうなんだよ」

 「もう顔の事言わないで」

 「おれに失礼だろ! そういうこと言うなら、兄妹の縁を切ったっていいんだぞ」




 智樹は彼女の自宅を物色した時、見つけた化粧落としを、洗顔料と勘違いして差し入れていた。




 これに困って、彼女が白雪社の洗顔料と基礎化粧品マイルドアクアを頼んだら、彼は確かに名称はマイルドアクアだが、全くの他社製品を『これで我慢しろ』とよこしたきりだ。




 しかも美容クリームだけで、やはり洗顔料はなしという始末。

 ゆかりは差し入れを使えず、肌がボロボロになった。




 智樹はアトピー患者の苦しみを知らない。

 いや、否定している――というより、ゆかりがそうであるように、智樹もまた、相手について学ぶことに苦痛を感じている。

 



 愛情の反対は憎しみではない。

 無関心だ。

 それも、相手を殺害する程の。


4,被害者の世界

 同月一週間後、よく晴れた日の朝だった。

 病室は暖房が効いていたが、ひとたび廊下に出ると、放射冷却の影響で殺されそうだ。




 病院の冷たい壁面のそこかしこに、クリスマス飾りがぶら下がる。

 患者や医療関係者の作った、安価なものだ。




 ゆかりは一階面談室で三十代の担当女性ケースワーカー、平沼と面会していた。

 平沼は小柄で細く、日常会話に関しては気さくな人だった。




 平沼はラベンダー色のセーターで温かそうにしている。

 ゆかりは病衣に水色のレッグウォーマー、裸足にスリッパのいでたち。




 ゆかりは平沼に言った。

 「保護者から虐待を受けています」

 「どんな虐待?」

 「モラルハラスメントをご存じですか」

 「全然知らない。どんな虐待か教えて?」




 ゆかりは説明した。

 「二人っきりを要求されます」

 「うん、それは断ったらいいいの」

 「そんなことしたら殺されます」

 「逃げればいいんだよ」

 平沼は笑顔でバッサリ切り捨てた。




 ゆかりは言った。

 「あなたモラルハラスメントを知らないって発言してるのに、解決がわかるわけないじゃないですか」

 「モラルハラスメントの解決は全く知らない。でも傍観者は被害者の話を聞いてると、被害者が悪いことだけは必ずわかるんだよ」

 平沼は自分を慰める時のように嬉しそうだった。




 「何が悪いんですか」

 「自分の力で解決しないことが悪いよ」

 平沼はほくほくと答えた。

 「どうして被害者の分担を考えるのですか」

 「だってまだ犯罪どうかわからないから」




 「被害者を疑うなら加害者も疑ってください」

 「まだ加害者ってわからないでしょ?」

 「どうやったら暴力だって信じてくれますか」

 「殺されたら信じてあげるよ」




 無能な相談員がよくやる暴力だ。

 被害者はカウンセリング被害で何年もベッドから出られなくなることもある。

 だから手口とは表現しない。

 相談員、及びカウンセラーの暴力だ。




 「あなたケースワーカーでしょう。知識をください」

 平沼は答えた。

 「あなたに知識が必要かどうかは、私たちケースワーカーが決める。

 知識が欲しかったら、私に気を使って、私をいい気分にして、私のために態度をいい子に直して、そんなことより自力で暴力を解決しなさい。

 私を、知識をあげたいなって気持ちにさせられたら知識をあげる」




 「どうしてあなたのために気を遣わないといけないのですか」

 「暴力の被害者は助かるためなら何でもする。

 傍観者はそこに付け込んで、被害者に王様や女王様にしてもらおうとするんだよ。

 被害者を殺すのは加害者じゃない。世界中の傍観者だ」




 ゆかりは平沼に面談室から丁寧に追い出され、呆然としていた。

 ケースワーカーというより、悪魔の対応としか思えない。

 けれど密室で起こったことを証明してくれる人はいない。

 ゆかりは自分が正気かわからなくなった。




 翌年六月、ゆかりは退院した。

 統合失調の自白は嫌だったが、妄想を認めなければ病院から脱出できなかっただろう。




 その後も智樹からモラルハラスメントを受け続けていたが、今のところ彼しか身寄りがないため、緊急連絡先も、再入院した場合の保護者も彼だった。

 



 八月ある日の昼下がり、曇天の下、猛烈な湿度と暑さが席巻する中、ゆかりは有田区役所に出向いた。




 少し前の公的機関はクールビズを強調して冷房をケチっていたが、最近はちゃんと効かせている。

 各窓口には、猛暑に訪れる区民に気を遣って備品の団扇が出されていた。

 青空に風船と入道雲のイラストが描かれている。




 三十代の男性担当ケースワーカー山根は、少し小柄で丸顔、優しそうな眼鏡君だった。

 屋内で涼しいのかと思ったら、午前中に外出の用事があったらしく、髪の毛が汗で濡れていた。




 彼は髪の毛について笑顔で釈明したが、きちんとした人で、ゆかりの前で団扇を使ったりはしなかった。




 ゆかりは相談した。

 「兄からモラルハラスメントを受けています。独立させてください」

 「モラルハラスメントって何ですか」

 「もう知識のない人には答えません」

 「それじゃ被害がわかりません」




 ゆかりはやはり説明しなければならなくなった。

 「二人きりを要求されます」

 「断ればいいの」

 「そんなことしたら殺されます」

 「逃げればいいの」

 山根はバッサリ切って捨てた。




 「もういいです。兄から独立するための知識をください」

 「まだ暴力ってわからないから」




 「身寄りがなくても、私が兄から独立する方法は法的にあるでしょう。教えてください」

 「あなたに知識が必要かどうかはケースワーカーの私が考える。

 あなたが警察並みのスキルで被害を証明し、私を、知識をあげたいなって気持ちにさせたら、知識をあげるよ」




 ゆかりは区役所を出ると、めまいを覚えて商店街をさまよった。

 明日は台風の予報だったので、気温は急速に下がっている。

 



 しかし彼女の見る世界は、真夏のアスファルトから立ち上る熱気の写真か、ダリの描いた時計のようにぐにゃりとひしゃげていた。

 商店街の店主の呼び声は、ボイスチェンジャーで加工したように二重に聞こえた。




 ゆかりは熱夢の中でうわごとのようにつぶやいた。

 「知識、情報――情報をちょうだい」

 傍観者の機嫌を取らないと情報遮断で殺される。

 それが被害者の世界。




 外出の自由があっても監禁されているのと同じ。

 傍観者はそれがわからず被害者を責める。

 あなたには手があり足があると。

 しかし実際のところ、被害者から手や足を奪っているのは傍観者だ。


5,最後の道

 九月、残暑の日もあるが過ごしやすくなってきた。

 ある晴れた朝、ゆかりは自宅近くの青看板のドラッグストアで生理用品を買った。




 有田の丘病院売店には生理用品がなかった。

 洗顔料は一種類で敏感肌対応もしていない。

 ゆかりは外出制限中、仕送りがゼロだったが、仮にあったとしても売店で買える日用品は無く、過酷な生活を強いられていた。




 彼女はその日、ドラッグストアの帰りに、急におはぎが食べたくなり、スーパーに寄った。

 愛らしいおはぎ達のコーナーを物色していると、誰かが突然ゆかりを羽交い絞めにし、刃物を突き付けた。

 「動くな」




 スーパーは年輩で大柄な男にジャックされそうになった。

 その時、誰かが二人の前に飛び込んできて、刃物を跳ね飛ばした。

 犯人はふわりと宙に浮き、あっさり投げ飛ばされる。

 ゆかりがわが身の無事を確認した時、犯人は床で目を回していた。




 周囲が騒然とする。ゆかりは救世主に訊ねた。

 「あなたは」

 「神崎雪彦」

 二十代で間違ってないだろう。ゆかりは若い彼の、小悪魔のような容姿をどこかで見た気がしたが、思い出せなかった。神崎は笑った。

 「僕、細いけど肉体派なんです」

 彼はローズピンクのスニーカーをデザイナーのように履きこなしていた。




 犯人は、神崎と店員がスーパーの備品を使って拘束。

 すぐに御用となった。

 ゆかりたちは、ほかのスーパー関係者や客同様、警察に協力した後、夕方解放された。




 ゆかりは帰り道にドラックストアによった時、神崎を見かけた。

 「先ほどはありがとうございました。こちらの方にお住いなんですか」

 「はい」




 ゆかりは神崎が女性用のコスメコーナーにいるのを不思議に思った。

 「何をお探しですか?」

 「口紅――妹が明後日、誕生日なんです」




 なるほど。

 神崎は言ったはいいが、どれを選んでいいかわからず、悩んでいるようだ。

 ゆかりは笑いかけた。

 「一緒に選びましょうか?」

 「ありがとうございます!」

 神崎は子供のように喜んだ。




 「どんな妹さんですか?」

 「昔から勉強嫌いなんですが、何故か今、高学歴の彼とお付き合い中で、毎日雄たけびを上げて着飾っています。着飾ったって弁護士二世と釣り合うわけないのにーー」

 ゆかりは噴き出した。それはそれは必死で着飾っているだろう。




 すると神崎が微笑した。

 「あ、笑った」

 「えっ?」

 「スーパーで浮かない顔してた時から気になっていたんです。犯罪者のおかげでご縁ができましたが」




 神崎は事件前からゆかりを気にかけてくれていた。

 ゆかりはどきんとした。

 神崎は魅力的な容姿の持ち主だったし、年が離れていなかったら恋してしまったかもしれない。




 「神崎さん、お仕事は何ですか」

 「近くの聖アリス病院に勤めています」

 「もしかしてお医者様か看護師さんですか」

 「ちょっと違います。他の雑用をやってるんですよ」

 では事務か何かだろう。

 ゆかりは神崎と楽しく商品を選んだ後、別れて帰宅した。




 智樹の嫌がらせは続いた。

 ゆかりは再三区役所に通っていたが、全て徒労に終わっていた。

 乾いた木枯らしの吹く十一月の夕方、やはり山根に会いに行く。

 区役所のバイオレットの時計は刻々と時を刻んだが、山根との進展は毎回ゼロだった。




 「知識をくださいと言ってるでしょう! 仕事をしてください」

 ゆかりが取り乱すと、山根は楽しそうにキレた。

 「ああ、そういうこと言うんだあ! 美しくないならやられて当然ですね! あなたがどうして助からないかわかっちゃった。じゃあ、勝手に苦しんでください」




 ゆかりは周囲に叫んだ。

 「助けて! ケースワーカーに殺される!!」

 山根がすぐさま反応する。

 「大変だ、ゆかりさんの具合が悪くなった。誰か! 人を呼んでください!!」

 ゆかりは美しくなくなったため、区役所関係者の男性陣営に取り押さえられ、もう一度有田の丘病院に叩き込まれた。




 翌年の三月序盤は雨ばかりだった。

 メディアの芸人が天気をネタにし、卒業シーズンの女子大生は袴が汚れて大変だろう。

 ゆかりは朝方、六階病棟をさまよっている時に、掲示板に張ってあるスナップ写真にくぎ付けになった。




 知っている男性が、他のメンバーと一緒に笑顔で映っている。

 首からローズピンクのひもで、名札を下げていた。

 それならの患者とは違うようだが、あいにく風で名札が裏返っている。

 ゆかりは近くにいた若いぽっちゃりナースに訊ねる。




 「この方はどなたですか」

 「先月移動でやってきたケースワーカーの神崎さんです。気立てのいい人ですよ」




 ――神崎はケースワーカーだった。

 そして肉体派で文武両道。

 更に弁護士二世と親交がある。

 ゆかりはナースと別れた後、一人、廊下を歩きながらつぶやいた。

 「神崎さん、私には神崎さんがいるーー」


6,神崎

 三月の終盤になるともう雨はなかった。

 しかし窓から見える空は不愉快そうに渦を巻いている。

 桜が開花しているので花曇りというものだ。




 ゆかりに季節を楽しめと言っても無理な話。

 彼女は昼下がり、病院一階の相談室に出向いた。

 担当は平沼だったが、彼女は外出中。

 ゆかりは他のケースワーカーに問い合わせた。




 「神崎さんと話すことはできますか」

 「可能ですが、あくまで担当は平沼さんですよ」

 「それでもいいです」




 詰め所から神崎が出てきた。

 「北崎さん?」

 彼が再会に驚いてぺこんと頭を下げる。

 「これは、先日はお世話になりました」

 「こちらこそ。今日はお話があります」

 「僕でいいのですか」

 「お願いします」




 神崎は仕事中なので華美ではなかったが、ローズピンクのラインの入ったシャツを着こなしていた。

 やはりデザイナーのよう。

 相談室外で立ち話になる。




 「保護者から虐待を受けています」

 神崎はゆかりに答えた。

 「状況証拠がそろってるのは聞いてますよ」

 「平沼さんは対応してくれません。あなたから働きかけをお願いしたいのです」

 「何か理由があるはずなんです。まだ暴力って決まったわけじゃない」




 ゆかりは彼に問いただした。

 「どうして暴力対応しないんですか」

 「“だって家族が憎みあうなんて悲しいじゃないか”。ゆかりさん、どんなに暴力を受けていても、“あなたの家族も大変なんです”」




 傍観者は被害者に取引を持ち掛ける。対処してほしかったら理解しろ、というものだ。

 しかし、被害者が加害者を理解したら殺されてしまう。

 しかもこれは傍観者の擬態提案であり、被害者が従わなかった場合は、制裁が伴う。




 ゆかりは食い下がった。

 「どうして被害者を信じないのですか」

 「統合失調患者の主張は被害妄想か本当かわからない。あなたが美しかったら信じてあげる」




 「どうして加害者は無条件で信じるのですか」

 「それはおれが傍観者だからだ。傍観者は全部そう。

 被害者が証拠を上げても、たとえ加害者が御用になっても、裁判になっても、傍観者は条件付きじゃないと被害者を信じない。

 ケースワーカーは被害者が何か発言したら、悩み相談として対応するよ」




 神崎は先日とは打って変わって、盛大に裏切ってきた。ゆかりは内心泣きたかったが、自分の鉄の意志をかき集め、冷静に訊ねた。

 「私は取り乱していません。あなたはどうやって私の美しくないところを探しますか?」




 彼は狡猾な笑みを浮かべた。化物のようだった。

 「統合失調が現状に感謝してなかったら美しくないよ。

 どうだい? 医療関係者は発言する統合失調を黙らせて楽しく暮らしてるんだ。

 対処してほしかったら暴力の証拠を出しな」




 「私はあなたが本当に対処できないわけではないのを知っています。あなたに法知識がある。私には暴力から助かる権利がある。知識をください」

 「統合失調患者の具合が悪くなったら誰か責任を取る人が必要なんだ。患者が保護者の暴力から逃げる道はないんだよ」




 ゆかりは彼の言葉のトリックを知っていた。

 「それはあなたの意見で、法的に逃げ道はあるはずです。知識をください」

 「知識が必要かどうか考えるのはクライアントじゃない。ケースワーカーだ。あなたが美しかったら知識をあげる」


7、私は全

 ゆかりは弱者でしかないのに、傍観者の彼は笑いながら全力で牙をむいた。

 ゆかりは言い返す。

 「あなた、状況証拠はそろってる、被害者は暴力と家族の分担から逃げたらいけないって言いましたね。

 自分で暴力の存在を認めています。ケースワーカーとして、対処してください」




 「傍観者は暴力の状況証拠なんか信じない。おれたちが信じるのは、暴力が本当は暴力でなかった証拠だけなんだよ」

 ゆかりは戦慄した。

 「あなたの話のひるがえり方、狂ってる」




 神崎は表情が醜く崩れたわけではなかったが、ふっくらした唇で醜悪に笑った。

 風もないのに彼の髪が生き物のように揺らめいた。




 「当たり前だろう。おれは個でなく全。

 ギロチンで受刑者の首を次々とはねたのも全。

 全体に心はない。

 安全なおれたちは、暴力に対処しない欺瞞のためだったら、解決する時の100倍以上のエネルギーを注げるんだよ」




 「人権侵害です」

 「考えすぎじゃないかな。ゆかりさん、お薬は飲んだかな?」

 神崎の美貌はますます艶めいた。




 ゆかりは怒りに震えた。

 いじめ、差別、暴力の被害者は被害の直後、暴力は憎まない。

 怒りで自分を殺したくなる。

 そのくらい傷つくのだ。

 彼女は言った。

 「あなたはどうしてそんなに醜いのですか」




 「火の粉をかぶりたくない傍観者は狂ったみたいに被害者を憎むのさ。

 お前さえいなかったら加害者と戦わないで済むんだ。

 傍観者は暴力に対処したくない欲望と罪悪のジレンマ、そして加害者と同じ暴力で全て忘れる快感に引き裂かれ、もう自分がわからない。

 これを全という。

 合法的な暴力は結局いつだって楽しいんだ。そうだろう?」




 ゆかりは叫んだ。

 「私はどうしてこんな目に遭わなければならないの」




 その時、有田の丘病院一階のすべての壁面と天井が外側に開いた。二階より上がどうなっているのか判然としないまま、どうと風が吹いた。

 桜の花吹雪が逆巻き、神崎は一瞬見えなくなった。




 ゆかりの視界が開けた時、ロビーからはすべての人気がなくなっていた。

 正面に立っている神崎は女物、群青の生地に、桜、えんじ色の柄の入った和服を着ていた。




 ゆかりの唇は上ずった。彼を知っている。

 「あなたは」




 彼はターコイズブルーの巨大な前帯に、低めのぽっくりを履いている。

 桜色を殺さないように、銀とピンク系の装飾品を全身にちりばめており、現代のユニセックスな髪形にほんの少し手を加えて、飾りと編んだつけ毛をしている。




 女装には見えず、露出も少ないが、花魁の男性版としか思えない。

 そして女性よりはるかに色香を放っていた。




 「私はゆかり」

 彼はうるんだ睫毛で伏せていた瞳をゆっくりと上げた。

 「私は傍観者であり、個でなく全。心なんかないの」




 神崎は彼女からケースワーカーの知識を奪った魔法使いだ。

 ゆかりは恐ろしさと己の罪の重さを思い出して、涙をこぼした。

 「仕方がなかったの。私は悪くない」

 「そうだ、私は悪くない。だからあなたを助けない。モラルハラスメントに苦しみなさい」




 ゆかりは抗った。

 「どうして私だけが責められるんだ。みんな被害者を見て見ぬふりするじゃないか」




 男性の花魁は、女性がするように袖で口を隠してクスクス笑った。

 長いまつげがあまりに妖艶で、およそ人間に見えず、白蛇の化身のようだ。




 「そうだな。責任は常に分散してる。でも歴史を変えるためには、傍観者の中から最初に責任を取る者を選ばなければならない。

 自転車保険ができる前は、金を持たない誰かが事故の責任を取っただろう?」




 「あれだって不公平だ! 理不尽だ!」

 「それでいいんだ。私は傍観者の私を使って世界を革命する」




 ゆかりは床に両手をついて泣き崩れた。

 「私は一体どうすればよかったの」




 その時、もう一度花吹雪が逆巻き、花魁は見えなくなった。

 ゆかりのいた場所の床の底が抜け、彼女は暗闇に転落する。

 若い男性の手が彼女を横抱きに受け止めた時、漆黒の悪夢は終わっていた。




 「あなたは」

 男性は一般的な私服で、花魁と同じに細身長身、こちらは天使のような容姿の持ち主だった。

 「ジョーカー隊員、若鷺仁。我々は大切な人材を捨てたりしない。あなたはもう罰を受けなくていい。代わりに革命に協力していただきます」





 仁は腕の中のゆかりの瞳を友愛をこめて見つめた。

 その後、皐月の被害は仁たちの隊が片付ける。

 皐月はジョーカー本部で修行を積み、第一線で働くカウンセラーになった。




 ゆかりの方は、仁がマジックシートを回収した後、元気な五体満足の家族と再会。

 昏睡中と聞かされていた彼らの事故の話が、神崎と花魁をやっていた隊員、御門凪の演出だったと知る。

 ゆかりは皐月と和解し、ジョーカーでカウンセリング治療を受け、さらに勉学を積むことになる。




 のちに、ゆかりは若手ケースワーカーを育てて世に送り出す講師になり、国際的にも評価され、たくさんの弟子に愛された。

 

(終わり)