有田区の事情

 雪穂は美奈川県、成浜市有田区で一人暮らし。

 大学卒業後、集団ストーカー被害に遭い、町ぐるみの露骨な攻撃を受けていた。

 仕事をすれば、工作員から嵐のようないじめに遭う。

 ブログで被害告発記事を書き、人気のないブラックペッパーシリーズを更新している。




 彼女はある初夏の日の午前、行きつけの土井耳鼻咽喉科を利用した。

 医者が夫婦で開業しているところで、診察券を入れる箱は、男の先生、女の先生と分けられ、少しユーモラスだが、子供でも分かるようになっている。




 待合室で、幼い子供が親の前ではねている。

 子供のスニーカーはちょうど流行になっている鮮やかなスカイブルー。




 この時期、あるニュースが話題で、院内のTVで同じ報道があった。

 雪穂は待ってる間、TVが見たかった。




 受付ナースが待合室に呼びかける。

 「では男の先生の患者さんお呼びします。鶴間さん、今宿さんーー中待合室でお待ちください。では次は女の先生の患者さんお呼びします。宮ノ下さん、都岡さんーー中待合室でお待ちください」




 その時、雪穂は呼ばれなかった。

 だから報道を見ていた。

 中待合室からはTVが見えない。

 何分かして、受付長、花田が雪穂を呼んだ。

 「桐谷さん、中待合室にお入りください」




 こんな例外いまだかつてない。

 男の先生の患者さん、女の先生の患者さんで、まとめて呼ぶのが土井方式だ。

 中待合室は飽和状態。

 受付長が患者の人数を一人増やす意味なんかどこにもない。




 雪穂はいったん中待合の中に入ったが、あまりにもぎゅう詰めだったのと、待ち時間が長かったので、一般待合室に戻ってTVの前に座る。

 そこから中待合室が十分見える。

 患者が減ったら入ればいいのだ。




 しかし、花田は雪穂に言った

 「桐谷さん、中待合室に入ってください」

 「まだあんなに待ってるじゃないですか」

 「でも入ってください」




 花田は雪穂がTVを見られないように工作した。

 ヨガか何かやっているらしく、背筋が伸びでいて、女優のように細い女性だった。

 若いころ美しいとは言われなかったかもしれないが、女性は年を重ねると健康美を評価されるようになる。





 雪穂は受診の後、薬局に処方箋を出した。

 呼ばれたので窓口に行くと、薬剤師は不衛生な感じの人だった。

 名札は“細山”と書いてある。

 彼は大声でがなり立てた。

 「下剤! なくなりましたね!」




 彼の体形は醜く崩れており、身長は見上げる大きさ。

 空気を読まず、至近距離での地声が大きすぎて女性が生理的に嫌がるタイプだ。

 彼は所有物を見るような目で、雪穂にねっとりと笑った。

 「便はどうですか?」

 「大丈夫です」

 「べちょべちょって感じですか?」




 その時、細山のこめかみに誰かの肘鉄がめり込んだ。

 細山はそのまま倒れて沈黙。

 彼を撃沈した若い男性薬剤師の名札は、柏木凪。

 細身長身で清潔感があって、まぶしい容姿をしている。

 



 柏木は窓口を引き継いでエレガントな手つきで薬をまとめた。

 「では雪穂さん、しっかり飲み切ってくださいね」

 白衣のポケットに鮮やかなスカイブルーのハンカチを入れている。

 縁取りは男性が慎重になるピンク、オレンジ、サーモンピンクで、デザイナーのよう。




 局内で彼一人だけがキラキラして、爽やかさが爆発していた。

 柏木以外の薬局のスタッフは全員青くなって大量発汗。

 誰もツッコまない。

 細山は青くなった人たちに、ひっそりタンカで運ばれていった。




 土井勝は50代後半、耳鼻科の院長。

 仕事を終えて同じ医師の妻と夕食をとろうとしたら、彼女は知人と用事ができたようだ。

 彼は一人で夕食を済ませ、就寝しようとした。




 その時、自宅の壁と天井がすべて外側に開き、スカイブルーの花吹雪が舞った。

 そのあとぐちゃっと誰かが降ってきた。

 ロシアのツァーリのようなコスプレをした若い男性で、勝の目の前でうつぶせに倒れてピクピクしている。

 よく見るとまともな容姿で、現れ方がすこぶる残念。




 「あんたあ、誰?」

 勝が訊ねると、コスプレ屋さんは起き上がれないまま、下向きで短くコメントした。

 「凪」




 近くで巨大扇風機が回り、花吹雪をかき回している。

 凪とかいうコスプレ屋さんは何か言いたくて失敗した人のようだ。

 勝は内科医ではない。

 しかし動けないコスプレ屋さんを見たら、いち医者として血圧を測る。


合理的なこと

 初冬、風邪の季節。

 ハロウィンが終わって年末商品が店に並んだ。

 女性のファッションではモスグリーンにボルドー、桜ピンクのアクセントをつけるのが流行している。




 しかし雪穂は街を彩る流行色を楽しんでいる場合ではなかった。

 土井耳鼻科受付長の工作により何度も風邪をうつされた結果、喘息発作を起こしてしまった。




 受診をやめるわけにいかない。

 雪穂はなるべく風邪の人に囲まれないように、午後診察の三十分前から並んだ。

 普通院内で一時間待ちだが、午後診察の三十分前に並べば、待つのは院外となるし、院内に入ればほぼ一番に呼ばれる。




 雪穂が院外に並んだ直後に、マスクをつけない女性インフルエンザ予備軍患者が現れ、ぴったりと雪穂の後ろについた。

 集団ストーカーの工作だが、待ち時間が短ければうつされずにやり過ごせるだろう。




 診療所のドアが開いて午後診察が始まった。

 院長が一人で切り盛りする時間帯らしい。

 花田が待合室に呼び掛けた。

 「男の先生の患者さんお呼びします。中山さん、桐谷さん、友井さん、中待合室にお入りください」




 雪穂は結局、マスクなしインフルエンザ予備軍患者と一緒に中待合室に入ることになる。

 そんなことだろうと思ったので、飛沫を飛ばしている友井と並んで座る気はなかった。

 中山と友井が座席に着くが、雪穂は離れて立ち待ちしていた。

 それが花田の目に留まった。

 「田中さん、中待合室にお入りください」




 また花田の独断による、例外呼び出し。

 土井耳鼻科の方針ではありえない。

 禿げた小太りの中年、田中もマスクをせず、ひどい風邪飛沫を飛ばして中待合室に入ってきた。



 田中は前列の友井の後ろには並ばなかった。

 友井とはるかに離れて、中待合室長椅子の最後尾の場所を陣取った。

 訊ねられればガラガラに空いてるならいいと思った、と主張するつもりだろう。

 彼も工作員だ。




 これで雪穂は中待合室の細長い空間で、右に逃げても左に逃げても風邪か、インフルエンザをうつされることになった。

 工作員によるインフルエンザサンドイッチ。

 雪穂が青くなった時だ。




 花田京子は孫のいる年齢だったがヨガをやっているおかげで、周囲からそんな年に見えないと言われる。

 彼女は土井耳鼻科で受付看護師長をやっていた。




 現在は新人の青年ナース、葛西の面倒を見ているところだが、なかなか物分かりがいい。

 京子は二十代の葛西青年の輝くばかりの若さ、細さ、麗しさに少し嫉妬しながら、隙を見ては目の保養をしていた。




 しかし葛西はある時、中待合室の様子に気づいて余計な発言をした。

 「友井さん、田中さん、マスクをしていないならまとまって席を詰めてください」




  京子は面倒くさいことになったと思った。葛西を呼び出して注意する。

  「ちょっと葛西君、勝手なこと言わないで」

  「僕、とても合理的なこと言ってます」

  葛西は天使のように笑って返した。

  かわいがっていた彼の悪意のない裏切りに、京子は苛立って歯噛みした。






私刑

 彼女は葛西から目を背けると、さらにマスクなしで飛沫を飛ばしている中年男性患者を呼んだ。

 「吉田さん、中待合室にどうぞ」




 吉田も中待合室長椅子の最後尾を陣取った。

 雪穂はまたインフルエンザ予備軍患者にサンドイッチにされている。

 京子が安堵した時、葛西が言った。

 「吉田さん、マスクをしていないなら前の席に詰めてください。桐谷さんは離れた最後尾で待っていてください」




 京子は我慢がならなかった。

 新人に詰め寄る。

 「葛西君、あなたね、桐谷さんの何なの」

 「僕とても合理的なこと言ってます。桐谷さんでなく患者さんのために発言したらああなります」

 「ちょっとこっちに来なさい」

 「はい」




 京子は雪穂の死角まで葛西を呼び出した。

 彼の前に仁王立ちして睨みつける。




 「葛西、私のやることに口出ししないで」

 「何故ですか」

 「桐谷雪穂は普通じゃないの。万引き常習犯だから町から追い出すように警察に頼まれてるの」

 「制裁の協力を一般人に要請する警察、おかしいでしょ。そういうの、警察の犯罪って言いますよ」




 京子は葛西に正義の心をくじかれて無性に腹が立った。

 彼に怒鳴りつける。

 「とにかく私の言うことを聞きなさい!」




 葛西は彼女を無視して診療所の奥に声をかけた。

 「ねえ、土井パパ―」




 京子は狐につままれた気分。

 「パパ?!」

 「受付長がいじめるー」




 葛西の告げ口で院長が診察室から受付側に出てきた。

 「花田さん、葛西君をいじめちゃいけないよ」




 京子は憤慨した。

 「いじめてなんかいません! 何ですかパパって!」

 「うん彼ね、知り合いから頼まれた新人さんなんだ。ははははは」




 いつも頼りなさそうに笑ってるキャラ、土井院長。

 しぐさもクネクネ、ナヨナヨ。

 決して男女の中間の人ではないのだが、何となく毎日優柔不断に見える男性。

 京子は今日、彼のクネクネがやたらと鼻につき、食ってかかった。




 「甘やかさないでください!」

 「甘やかしてるんじゃない。逆らえないんだ。はははは」

 「どういうことですか」

 「彼、日本医学会の権威の息子さんなんだ。お母さんはアメリカ大統領の恩人の娘さんだそうだよ。ははははは」




 京子は院長に歯をむいた。

 「そんな肩書に屈していたら新人は育ちません! 院長先生はシャキッとしてください」

 「はははは」

 「笑ってないで」

 「笑ってないよ。地がこうなんだ。受付看護師長は厳しいなあ。ははははは」





暴君

 十二月になった。

 京子は雪穂を見かけるたびにインフルエンザサンドイッチ工作を試みたが、ことごとく葛西が邪魔するようになった。

 細い容姿も中身も小悪魔のようだ。

 京子は我慢がならなかった。




 雪穂が診察にやってきた日の11時、京子は葛西を奥の間に呼び出して、彼の前に仁王立ちした。

 「葛西、私の言うことが聞けないなら、あんたがどんなに偉い人の子供でもいい。私と警察の方針に手向かったこと、警察に言ってもいいんだよ。約束された将来がおじゃんになってもいいの?」

 「今のセリフ、ICレコーダーに録音させてもらったよ」




 京子は度肝を抜かれた。

 葛西は笑うと胸ポケットからペンを取り出して、京子の前でひらひら振った。

 レコーダーだ。



 彼は続けた。

 「インターネット公開されたくなかったら、桐谷雪穂が万引き常習犯である証拠は何か警察に聞いてきてもらおうかな」

 「そんな、警察が言うんだからーー」




 突然、葛西が近くの戸棚を蹴倒した。

 けたたましい音とともに、戸棚の中身が床の上にぐちゃぐちゃにひろがった。

 京子を振り返った彼は暴君の目をしていた。

 「とっとと聞いてこい」




 京子が交番へ走る。

 街では灯油の販売車がのろのろ走り、テーマソングを垂れ流している。

 普段は時代遅れの能天気な女声テーマだったと思ったが、今回は年末特別版なのか、男声が合唱で「お父さん! お父さん!」と暑苦しく吠えている。

 しょっぱい。

 京子がどこまで走ってもテーマソングがついてくる。




 彼女は息を弾ませて診療所に戻る。

 葛西に報告した。

 「素人に捜査事情は教えられないって言われて」

 「じゃあさ、どうして捜査事情が教えられないのに、制裁には協力させるのか聞いてきてごらんよ」



 京子は驚いた。

 「待って、私は行ったばかりで―――」

 葛西がコピー機を蹴倒した。

 狭い受付ルームは震災被害に遭ったかのような惨状になった。

 京子は怖さのあまり、もう一度交番に走る。




 今度はゴミ収集車に遭遇した。

 なぜかテーマソングがプロレスアニメのもの。

 やはり男声が合唱で吠えており“リングからよろしく”というサビの部分が、京子の激走を盛り上げる。

 しょっぱい。

 年末なのに、どうしてそれらしいテーマソングがないのか。




 彼女が診療所に戻った。

 葛西が訊ねてきた。

 「どうだった?」

 京子は息も絶え絶えに答えた。

 「素人には教えられないって」

 「じゃあさ、もう身体にこたえるだろうから、今日はもういいよ。明日はどうして素人には教えられないのに、制裁には協力させるのか聞いてきてもらうよ」




 翌週。

 仕事中、葛西が京子に言った。

 「花田さん、ネブライザーの片付けしておいて」

 「あなたの仕事でしょ」

 「そういうこと言うなら録音記録、ネット公開するよ」

 京子は信じられない気持ちで年内勤務最終日を迎えた。

 何もかもが悪い方に展開する。




 年始の休みが終わると土井耳鼻咽喉科は新年の営業を開始した。

 「花田さん、コピー取って」

 「はい!」

 「花田さん、おれの食ったせんべいのカス、片付けといて」

 「はい!」

 「花田さん、散らかしちゃった」

 「はい!」

 「花田さん」

 「使うなぁぁぁぁぁぁ!!」




 ようやく上下逆転に気が付いた京子が葛西にキレる。

 葛西は一切の仕事をせずに、背もたれのついたドクターチェアに足を組んで座り、耳鼻科ナースのキレイどころに、肩や二の腕、足をもまれて左うちわ。 

 ハーレムを作ってすっかり君臨していた。






ブルーフェニックス

 一週間後。

 京子は勤務中、葛西によって町に叩き出され、憤怒で内臓が煮えくり返る気分で診療所に戻った。

 葛西が余裕綽々で訊ねる。




 「ブツは持ってきたんだろうな」

 「これが最後よ」

 「いいから出しな」




 京子は葛西をにらみつけてカバンから袋を差し出した。

 葛西が残忍な笑顔を浮かべてそれを奪い取る。

 町田屋のメロンパン。




 翌週。

 葛西が診療所の椅子を蹴倒す。

 「メロンパン買って来いよぉぉぉぉぉぉ!」

 京子はナースをやってるのかパシリをやってるのかわからなくなる。

 有田区丸ヶ峰、極寒の一月午前、診療所をたたき出され、人気菓子パンを探しに走る。




 途中でコメディアンのような転び方をしてしまい、周囲の失笑を買った。

 制服のスカートから下着も丸見えだったらしい。

 京子はべそをかいた。




 「どうしてこんな目に遭わなければならないの」

 「あなたは罪のない人への私刑に協力した。他人に笑われるくらいが何だというのです」




 京子の前に、知らない美魔女が立っていた。

 暖かそうなロングダウンコートをシックに着こなし、長い髪をたなびかせ、背後に重ねた年月を感じさせる。

 仮に美しくなかったとしても、確かに魔女。

 時空の管理人。




 京子は魔女に訊ねた。

 「あなたは」

 「ブルーフェニックス第三部隊隊員、舵涼子。桐谷さんね、あなたのいじめで自殺するところだったんです。そうでなくとも、免疫力が低下して喘息から抜け出せなくなった。あなたはもうナースではない」




 「私はただ警察を信じて」

 「別に無垢だったとは思いませんよ。制裁を面白がってた人なんて」

 魔女は涼しそうに答えた。




 耳鼻科待合室の雪穂は、花田が最後に診療所からたたき出されるのを見た。

 たたき出した当人の男性ナースは、その制服のままやってきて、雪穂の隣に座った。

 「桐谷さん」

 「あ、柏木さんーー」




 雪穂はナースの正体に気が付いた。

 柏木はいつか助けてくれた薬剤師だ。




 「すみません、本名は御門凪です」

 彼はぺこんと頭を下げた。

 そして真顔を上げる。

 「ブラックペッパーシリーズ、拝読させていただきました。僕はブルーフェニックス第三部隊隊員です」




 「ブルーフェニックス?」

 「我々は集団ストーカーと戦っています。攻撃の証拠取りました。あなたはもう安全です」




 雪穂は狐につままれたみたいな気がしてしばらく呆然とした。

 そのあと、べそが止まらなくなった。




 御門は続けた。

 「あなたはとにかく健康を回復しないといけない。ブルーフェニックス医療部隊が開発した免疫ミルクの亜種を半年間、無料で支給します。もう大丈夫――」

 雪乃が何も言えず下を向くと、御門は彼女の頭をそっと抱いた。




 集団ストーカー構成員の花田京子が部外者の葛西を脅して懐柔しようとした録音音声は、インターネットで世界中に公開された。

 京子は生きた心地がしなかっただろうが、警察は彼女が加害者の証拠が挙がっても動くことはなかった。


 


 TVやネットでも一時騒ぎになったが、黒幕がすべて黙らせる形となった。

 それこそが、政治も警察も集団ストーカーに加担している証拠。




 加害者の京子が泣きながらメロンパンを買いに行き、イタくて面白い転び方をする映像はブルーフェニックスが撮影済み。

 映像はユーチューブに公開され、京子は望まずに世界的有名人になる。




 ブルーフェニックス側で調べはついていたが、京子は友の会に所属していることを最後まで白状しなかった。

 ユーチューブ騒動のせいで彼女の一家は離散となったが、会にも警察にも政治にも守られ、家族全員すこぶる健康である。

 健康ほどかけがえのないものはない。




 ――友の会は構成員で集団ストーカーを行い、統合失調工作でターゲットの人権を奪う。

 そして標的の拷問データを各国の科学者、心理学者、医者、政府要人、変質者に売りさばいて財源にしている。

 人権のない人間の拷問データは、どこの国でも必ず需要があるーー。




(終わり)