達子は成浜市に住む主婦。
 近隣住人と同じに、斜め向かいの若い住人、里香を心配していた。
 ほとんど面識はないが、報道で里香の被害を聞いてから、突然身内のように感じている。


 「里香ちゃん、どうして逃げなかったの。どうして自分の力で助かろうとしなかったの。一体どうして、どうして。おばさんわからないわ」


 窓の外は霧雨が降っている。
 朝の家事を済ませると、午前10時のおやつタイム。
 達子はリビングで悩み苦しみながらメロンを食べる。
 身体はコラーゲンを求めるが、脂肪の落ちにくい年齢になっている。


 同窓会に顔を出したら、同級生の息子が若手の医師になっていて妬けた。
 達子は子供はいない。
 趣味で弾いているキーボードを子供のように思っている。



 部屋で悩んで苦しんでいると、夫の善治がやってきた。
 小柄だが、達子に比べるとおなかは出ていない。
 ローブ姿で、いつもの猫背、鉤鼻、片手に仕事用の杖を持っている。
 彼の休息時間は夜とは限らない。
 

 「苦しいなら被害者のところへ行け」
 達子は尋ねた。
 「どうして」
 「被害者に悔しいか悔しくないか聞いてごらん。彼らがどっちと答えても、傍観者は彼らを助けなくて正しかったことがわかってしまうんだ。自分の正しさがわからない時は被害者のところに行け」


 善治は時空を渡る能力の持ち主。居を構えるのは現代だが、仕事は歴史上の要人の補佐。




 仁は火曜午前、いつもの青い制服姿でジョーカー本部コンピュータ―ルームに入る。仲間と打ち合わせ。
 同じ若手の同僚男性、御門凪の注文が飛んできた。
 「この森の風景のホログラム、もう少し影をつけられないかな」
 「じゃあ、こう?」


 仁が機材を操作する。
 凪はコンピューター画面を見てうれしそう。
 「あっ、そうそう!!」
 いろんなわがままを言う隊員だが、性格は悪くないし子供の神様みたいな笑い方をする。
 仁はかなわないなと思った。


 数日後は温暖な快晴。
 暴力被害者小暮里香は、昼下がりに自宅玄関前で複数の客に責められていた。
 里香は通院中で仕事を休んでいる。


 「やられて悔しくないのかって聞いてるんだよ」
 「悔しいです」
 「悔しかったら解決したらどうなんだよ!」


 第三部隊隊長のGOサイン。
 アパート周辺にはりこんでいた仁達が里香の傍観者達を消火器で攻撃する。
 他にもホースの水。
 スプレー缶をONにした殺虫剤を使っているのは凪。


 「わーっ、ジョーカーだ!!」
 「ゴキブリ集団!」
 「心配の美徳がわからないのかよ!!」


 傍観者達は殺しても死なないみたいなセリフを吐きながら道路へ逃げ出す。
 執拗に追いかけるジョーカー隊員。
 先陣を切る凪がイキイキと輝いている。
 制裁欲が400%満たされて、お肌はツヤツヤ。


 近所にヴァイオリニストが住んでいて、小学校で運動会でよく使われる『天国と地獄』をハイテンションで情熱的に演奏している。
 桜の季節なんだからそれらしい曲を弾けばいいのに。


 ジョーカーは武装福祉組織。
 暴力問題を扱うため、多数のシェルターを有している。
 それとは別に、特定の組織と戦っているため、兵器レベルの舞台演出力を持っている。


 凪は子役、女役のできる第三部隊の花形。
 多才でシナリオや衣装制作もやる。
 性格が子供っぽくて昇格できないと隊長がいつも嘆いている。

第一章

 達子は善治の言う通りにする。

 風の強い日の夕方、里香の心配に繰り出した。

 途中のスーパーで、少し早い春野菜が出ていたので、購入した。



 バス停前を通りかかるとベジタブルを連想させるビタミンカラーファッションのおしゃれぽっちゃり女子が、バスに乗り遅れて標識を蹴飛ばしていた。

 よほど悔しかったのだろう。

 この場面でジャパニーズスマイルのない日本人は珍しい。



 達子が里香の住むアパートに到着し、玄関前でインターホンを押すと本人が出てきた。

 里香は部屋着で達子は外出着。

 達子はこれらの落差を里香の責任だと思った。

 髪だって服だって、もう少しやりようがあるだろう。



 ほっとけない気持ちになった。

 何とか教育したい。

 とにかく、態度と形を全部変えたい。

 全部気に食わない。

 全部相手のためだと思う。



 達子はキャベツがはみ出した袋を片手に尋ねる。

 「悔しくないの?」

 「悔しいです」

 「悔しかったらどうしてやられてるんだ!!」



 達子は里香をコテンパンにして自宅に帰った。

 どうして里香が助からないのかわかってしまった。

 本人が悪い人だったのだ。



 プリプリ怒って作った夕飯のポトフが激ウマ。

 善治が不在なのが残念だったが、達子はポトフをモリモリ食べ、翌日、お通じがよくなり、少し日にちが立つと肌がツヤツヤなことに気が付いた。



 達子はうれしくて、インターネットで次の被害者を探し、心配をしに行く。

 「悔しくないの?」

 「悔しくないです」

 「ああ、そういう人だったんだ!! じゃあ、やられて当然だね!! 勝手に苦しみなよ!」



 達子は自宅に帰る。

 この日も自分が被害者を助けなくて正しかったことがわかってしまった。

 肌はどんどんきれいになった。





 達子は被害者探しにハマった。

 彼らを探し、心配、教育するのがやめられなくなる。

 被害者がどうすべきか、睡眠時間を削って夜通し考えているのに、健康は増進する一方。

 子供の頃からの趣味の作曲はみるみるアイデアが降りてくる。

 家事はどんどんはかどった。

 


 TVでは女優の武藤由梨花の娘が映画『からくれない』の主演で成功し、バラエティやドラマで引っ張りだこ。

 その一方で、引退はしていないものの、露出がほとんどなかった由梨花の写真がスッパ抜かれた。

 醜く太った由梨花が、部屋着姿でゴミ出しをしているところだった。



 ちょっと小憎らしい曇天の日に、達子は善治と一緒にリビングで朝食のベーコンエッグを食べながら、笑った。

 「武藤由梨花! 落ちたよね」

 「本当だよね。あんなに醜くなって」

 彼はあまり笑わないが、心は通じ合っている。



 善治は日帰りで中世ヨーロッパの一国に通い、恐怖政治を行う30代、バルトル国王の相談係を請け負っていた。

 バルトルは長身だが痩せている。

 いつも人を疑ってギラギラした目をしていたが、最近、夢中になっていた若い愛妻が死んだ。



 バルトルはその後、私室で青いハーブティをすするだけの、やつれた人になりかかっていた。

 気弱になっており、政治の方向転換も考え始めている。

 彼は善治を私室に迎え言った。



 「もうメイタール人の差別はやめるべきじゃないかと思うんだ」

 善治はバルトルを叱咤した。

 「やめてはいけません。国民を団結させたかったらもっと弾圧しなさい」



 善治は仕事終わりに現代に戻る。

 七色に明滅する時空の狭間を走って自宅に向かう途中、小学校教師が生徒をもてあましている場面に遭遇した。



 善治は一般人のふりをして近付いた。

 教師は小和田努武といい、小柄で丸顔、ちょっと太めな所もむしろ優しそうな文系眼鏡青年。

 善治が親切にすると努武はコロリと悩みを打ち明けた。



 「僕のクラスだけ、子供たちの成績が良くないんだ。また教頭に叱られた」

 「生徒たちに差別を教えてあげなさい。少数派を犠牲にすると、大多数の子があなたに夢中になって輝くんだよ」



 ――善治は弱者を憎んでいるわけではない。

 支配者を科学し、彼らをコントロールすることに生きる意味を見出していた。






 4月、達子は午後のスーパーの帰り道で、入学したばかりの小学生達に太っているのをからかわれた。

 怒って後を追いかけたが、彼らの捕獲に失敗し自宅に帰る。買い物袋を広げると、卵が全部割れていた。



 翌週月曜、早朝の雨が止んだ直後、達子は通り道でなかなか見ない里香を捕まえることができた。

 先日と同じに詰め寄った。

 「悔しくないの?」



 その時、突如どっと風が吹き、細身長身の青年が魔導士のような青紫のローブをまとって飛来する。

 水色のレインコートと赤い水玉のレインブーツの里香を、童話のようにさらっていってしまった。



 達子はあっけにとられて、近くを通りかかった私服の青年を呼び止める。

 「お兄さん、あれ見た?」

 「何を?」



 青年も細見長身、小悪魔のように魅力的な容姿をしていた。

 ローズピンクのレインブーツをデザイナーのように履きこなしている。



 彼女はあたりをキョロキョロ。

 魔導士は見当たらない。

 夢だったのだろうか。



 彼女は自信が持てず、デザイナーみたいな青年の前で肩を落とした。

 「何でもないわ」

 「おばさん、僕は凪。あなたは何というの」

 「達子」

 「達子さん、里香に付きまとってるらしいね」



 達子は悪意のない彼の言いがかりにびっくりした。

 「違うわ。心配してるの」

 「そうなんだ。何してあげたの」

 「私は他人よ。何もできないわ」

 「じゃあ、何もできないんだ。心配はやめよう」

 達子は憤慨した。

 「だって悔しいでしょ」



 空に異変が生じた。

 黄砂が迫ってる時に似ているが、色が褐色や黄色ではなく、黒。

 ハエだ。

 達子は恐ろしくなって動揺したが、凪は余裕で口をぱっくり開いた。

 空に広がっていたハエの群れが、紙のこよりを作った時のように一部とがりはじめ、先頭のハエから、彼の口の中に飛び込み始めた。



 彼は作業中で止まったパソコンのように、うつろな目を見開いて、周囲のハエを残らず飲み込んでいった。

 終わると口を閉じる。

 彼の瞳に、起動したパソコンのように感情が戻り、彼は妖艶な唇で、白蛇のように笑ってぺろりと舌なめずりをした。



 達子は尋ねずにはいられなかった。

 「あなた誰」

 「ベルゼバブ」

 達子は飛び起きた。

 自宅のベッドだった。

 窓の外で朝の雀が泣いている。





 マナは本部で若い女性精霊使いが時空の扉に飛び込んだのを見送った。

 善治の仕事にちょっかいを出しているらしく、仲間の話だと、今やバルトル国王と小和田努武のマドンナとのこと。



 マナは午後の勤務時間、第三部隊詰め所でコンピューターを開いた。

 制服の襟にはジョーカー隊員のバッチがつけてあるが、彼女はそこに小さなブローチを並べている。

 今日の精霊使いと同じに若手なのでおしゃれもさりげなくしたい。

 自慢のポニーテールが短すぎるとよく同僚に突っ込まれるが、ポニテにだってプライドはあるのだ。



 「花村善治、とーー」

 彼女が席でキーボードを打つと、データが出力される。

 「うわあ、罪状だらけ。万死に値するね」

 「いや、助けよう」

 男性隊員の声。



 マナが振り返ると、同僚の御門凪が後ろからコンピューターを除いていた。

 マナと同世代で、小悪魔的な容姿をしている。

 現場では物腰が蛇か、あやかしを思わせる時があるが、普段は子供っぽくて相手にならない。

 彼は勤務時間にスルメイカを噛んでいた。マナが訊ねる。

 「どうして」

 「その方が面白いから」





第二章

 五月のゴールデンウィークに入った。

 達子はここぞと被害者を探した。

 次の相手は、30代の石田和美。

 休日の主婦は結構忙しいので、達子が会いに行くのは夜になった。



 和美宅の最寄り駅を降りると、ホームに今話題の映画ポスターが貼ってあった。

 満月の加工写真が幻想的である。

 おりしも今日は満月の三日前。

 改札を出ると、街のネオンがポスターより印象的にきらめいている。

 天気に恵まれ、温暖な時期になっているので夜風は気持ちよかった。



 達子は相手が休日、仕事で休めないのを知っていた。

 和美のゴールデンウイークは来週。

 達子が夜に待ち伏せしても会える確率が高い。



 達子は和美宅前で待機し、仕事帰りの和美を捕まえた。

 初対面だが、顔写真はチェック済。

 そのくらいしないと“心配”はできないのだ。



 和美はみっともない格好。

 顔だって態度だってもう少しやりようがあるだろう。

 達子は全部納得いかない。

 全部教育したい。

 全部相手のためだ。



 達子は和美に詰め寄った。

 「悔しくないのかって聞いてるの!」

 その時突然、街のネオンが全て消えた。

 漆黒の闇になる。

 達子は動揺した。



 「和美さん、大丈夫?」

 「はい」

 「ええ?」



 達子は男声の返事に驚いた。

 「和美さんは?」

 「はい、石田和美です」



 照明が生き返った。

 達子はあたりを見回した。

 女性の和美は見当たらず、正面に若い男性が立っている。

 彼を知っているような気がしたが思い出せない。

 街の風景は通常通り。

 通常通り? 

 どうして停電で騒ぐ人がいないのかーー。



 しかし、達子は男性に見つめられるとすべての違和感を忘れてしまった。

 彼の容姿と黒瞳が蠱惑的で、見てるだけで前後の判断がつかなくなる。

 達子は甘い熱夢に支配された。

 彼が和美といったら和美になる。



 達子の舌はいつも通り、くるくる回った。

 「悔しくないのかって聞いてるの」

 「それは私が考えることです」



 “和美”の裏切りに、達子は爆発的な屈辱と憎悪を感じた。

 「ああ、そういうこと言うんだ! あきれたあ!」

 直後に達子は生ごみの箱をかぶっていた。

 箱を振り落とした後、犯人を捜したが、誰だかわからず。



 達子は翌日から地元で和美の悪口を吹聴して回る。

 報復しないといられなかった。

 「知ってた? とんでもない口の利き方するのよ。やられて当然の人だったわけ!!」

 街の鮮やかな鯉のぼりたちが、彼女のゴシップを口を開けて聞いている。





 達子はインターネットで次の被害者、太田千波を探し出した。

 ゴールデンウイークと重なって、千波の町は季節祭でオレンジに染まり、夜店が盛り上がってる。

 千波に祝う気持ちがなくとも、安い買い物は魅力的だろう。

 達子が夜に会える確率は高かった。



 達子は千波の自宅前で待ち伏せし、ポストまで回覧板を取りに来た本人を捕まえた。

 街では和装女子が美を競っているのに、千波はみっともない格好。

 顔だって態度だってもう少しやりようがあるだろう。

 達子は全部納得いかない。

 全部教育したい。

 全部相手のためだと思う。



 達子は千波に詰め寄った。

 「悔しくないのかって聞いてるの」

 辺りは突如として暗転した。

 また停電。

 それも街ごと。

 そして停電とは関係なく、通り道の夜店の音楽が、男声絶叫系の洋楽に変わってしまう。



 「どうなってるの? 千波さん?」

 「はい」

 「ええ?」



 男声が返ってくる。達子は動揺した。

 「千波さん?」

 「はい、太田千波です」



 街のネオンが復活すると、女性の千波は消えており、達子の前に若い男性が鮮やかな朱の私服姿で立っていた。

 蠱惑的な容姿で、蛇のあやかしが化けたかのよう。

 西洋の女性だったら妖艶なサロメを思わせる。

 彼を知っているような気がしたが思い出せない。



 風景は元に戻ったが、夜店の音楽が絶叫もののままで、異世界に迷い込んだよう。

 そして無根拠に気持ちいい。



 あやかしが千波と言ったら千波になる。

 達子は甘い熱夢に支配され、口の中の舌はいつも通り、くるくる回った。

 「悔しくないのかって聞いてるの」

 「達子さん、優しくしてほしいなら、優しくしてって言った方がいいよ」



 達子は驚愕して叫んだ。

 「そういうこと言ってんじゃないの!」

 「でも、自分の望んでることしてほしいんでしょう?」

 達子は口をパクパクした後、挨拶も忘れてそこを去った。



 自宅に帰って悶々と考える。

 夜も眠れず徹夜。

 三日後、もう一度、男性の千波のもとに出向く。



 「何の御用でしょう」

 自宅前に立っていた彼に、達子は本心を打ち明けた。

 「千波ちゃん、私ね、本当は、わかって欲しかったの」

 「それは好かれる事やってから言いましょう」



 達子の中で屈辱と怒りが爆発する。

 「ああそういうこと言うんだあ! それじゃやられて当然だよね!! あなたがどういう人かわかっちゃった。じゃあ、勝手に苦しみなさいよ。自業自得って言うんだ!!」



 直後に達子は頭から水をかぶっていた。

 近くで遊んでいた三人の悪ガキが、同時にヨーヨーを投げつけてきたらしい。

 達子が怒鳴りつけるとケツまくって逃げてゆく。

 なんと無礼なのだろう。



 達子は翌日、地元で千波の悪口を吹聴した。

 報復してないといられなかった。

 「本性を見てやったわ。結局甘やかされてた女性なの。とんでもない口の利き方するのよ。ああいうのを自業自得って言うのよね!!」


第三章

 休み明けから十日ほどたった。

 雨期の前の晴天が続いている。

 達子は午前中内科受診し、異常なしを聞く。

 帰りに自宅近くの公園で、青年がベンチに座っているのを見た。

 彼は花壇の青い花と小学校一年生くらいの子供たちに囲まれていた。



 近づいてみると、彼の手に乳離れしたばかりの仔猫が抱かれている。

 子供たちが触りっこフィーバーして仔猫が危ない、というのが一般的な意見だろう。



 しかし、青年の周辺の彼らは、仔猫を取り合わず、ものすごくきちんと眺めている。

 全員が青年の弟妹とは考えにくいし、不思議な光景だった。



 達子は青年に話しかけた。

 「かわいい猫ちゃんね」

 「でしょう?」

 「お隣、いいかしら」

 「どうぞ」



 仔猫を撫でる青年は笑った。

 透き通った肌をしており、気のせいか、いつか里香をさらって行った麗しい魔導士に似ていた。

 魔導士より聖母か聖職者のような今の方が、容姿とやってることが釣り合っている。

 彼の長いまつげがまぶしかった。



 達子は青年の隣に腰かけ、尋ねた。

 「名前は何というの」

 「僕は仁。この子はジャスミン」



 達子はかがんで仔猫に挨拶した。

 「はじめまして、ジャスミン。私は達子よ」

 手を差し伸べると、ジャスミンがなめる。

 ゴロゴロ言う。

 仁は言った。

 「生まれたばかりで警戒心がないんです」

 「そうみたいね」

 彼はジャスミンを優しく愛撫した。

 「こうして、いっぱいいっぱい愛してあげるんです。幸せにしてあげるんだ」



 達子はうっとりとため息をついた。

 「いいなあ」

 「どうしてですか」



 達子はうなだれた。

 「愛されたことないの」

 「おひとりですか」

 「いいえ、結婚してるわ」

 「旦那さんが愛してくれるじゃないですか」



 達子は悲しくなった。

 「私が求めてる愛情はそういうのじゃないの」

 仁は優しかった。

 「じゃあ、どういうの?」



 達子が気が付くと周辺の子供たちは音もたてずに消えていた。

 花壇の中で、仁と二人きり。

 後はジャスミン。

 達子は本心を打ち明けた。



 「ご飯作ってくれて、甘やかしてくれて、大金の入った通帳くれて、お手伝い雇ってくれてーーそういうの。全部ほしい」

 仁はにっこり笑うと、ジャスミンを達子の前に差し出した。

 「この子抱っこしてくれませんか」

 「いいわよ?」



 達子はジャスミンをそっと抱いた。

 かわいかった。

 仁は言った。

 「彼女、なでなでが大好きなんです」

 「そうみたいね」

 「彼女、無条件で愛してくれるんです。これではだめですか?」





 達子は言葉を失った。

 でも急な邪魔が入った。

 おなかをおさえないといられない。

 「いたたた」

 

 

 仁は驚いた。

 「大丈夫ですか」

 「平気よ。このくらい」

 「内科に行ってください」

 「異常なしって言われてるの」



 仁は達子に気を遣って、ジャスミンを手元に戻した。

 前かがみになった達子のために、自分も腰をかがめて言った。

 「僕、病院事務の仕事してます。もしかしたら、精神科か、心療内科の出番かもしれませんよ」



 「精神科―――」達子は身体をこわばらせる。

 「ストレスがおなかに来る時があるんです。お疲れではないですか」

 「うるさい!私は精神病じゃない!!」

 達子は怒鳴り散らして立ち上がった。

 仁を置いて自宅にさっさと帰る。

 危うく頭のおかしい人扱いされるところだった。



 達子は自宅で、早めに帰ってきた善治を迎える。

 リビングでの新聞の取り合いでちょっとした口論になり、彼に八つ当たりした。



 「あなたはいいわよね。時空を渡れて。私なんか、何にもない。なーんにもないの!」

 彼は新聞の事は引き下がって、弱ったように顔をしかめた。

 「探したら長所くらいあるだろう」

 「何にもないわよ!! なーんにもないんだから!!」



 彼女はトイレの後、洗面所の鏡を見た。

 鏡に映ったピンクの水玉タオルはすすけ、自分もくたびれている。

 「全く、私は特技も何もなくて、顔は最低で。どうしてこんなに芸能人と不平等なんだろう」



 夜のゴールデンタイムに視聴者参加型ダイエット番組が放映された。

 5人の女性がダイエットに成功したが、6人目は失敗してしまい、TVの企画を裏切る結果になった。

 何とか3キロだけでも痩せるため、トレーナーに怒鳴り散らされながら筋トレをすることになる。



 達子は敗者の6人目を見るのが快感でたまらなかった。

 人間が戦って勝敗が決まる所を見るのが好きだ。

 でも格闘技や、ドラマ、書物では満たされなくて、生の人間が蹂躙される場面にしか面白さを見出せなかった。

 だから見る番組はいつも過激なワイドショーかバラエティになる。




第四章

 6月上旬、達子はインターネットで20代暴力被害者、越川操を見つけ出し、住所を調べつくす。

 泣き出しそうな空模様の日曜日午後、操の心配をしに外へと繰り出した。

 達子は念のためパステルグリーンの雨靴姿で折りたたみ傘を持っていたが、雨は降ってこなかった。

 湿度が高くて蛙になりそう。



 操の自宅に向かう途中、カーニバルに遭遇した。

 猫の死体を囲んでダンサー達がエスニックな衣装で躍っている。

 観衆の喝采――。

 「夢?」

 達子はそこを通り過ぎた。



 次はランドマークタワーの前の人だかりに遭遇した。

 みんな笑ってる。

 なにがおかしいのかと思ったら、円陣の中央で今朝TVで報道された暴力の被害者が自殺していた。

 飛び降りらしい。

 救急車が停車していたが、救急隊まで仕事をせずにおなかを抱えて笑っている。

 「夢?」

 達子はわけがわからなかったが、目的地へ急いだ。



 達子は操の自宅に到着した。

 操は仕事をせずに引きこもっているらしい。

 引きこもりは日本人の敵だ。

 生活保護なら税金泥棒。

 傍観者なら一度は私刑に命を懸ける。



 操の自宅前はカメラや照明を持った人だかりがあった。

 仮装した人がいるので、報道陣ではないようだ。

 彼らは達子に気づいて尋ねてきた。



 「あなたはどなたですか」

 「達子よ。被害者が心配でやってきたの。あなた方は?」

 「我々はびっくりテレビのレンジャーです。引きこもりを外に出そうって企画で来ました」

 「あら、びっくりのレンジャー? 私、あの番組、大好きなのよ。この間は無理やり引きずり出した引きこもりが自殺したってね。さすがはレンジャーだわ。素敵! 今回はどうやって引きずり出すの?」



 「今回は強行突破です。見ててください!」

 レンジャーの内一名が小型コンピュータを見ながら言った。

 「熱反応、奥です」

 「よし、玄関は大丈夫だ」

 レンジャー隊長が指示する。

 同時に操宅は少量のダイナマイトで側面が吹っ飛んだ。



 達子は手をたたいて歓声を上げる。

 「レンジャーさん、私が先に会いに行っていい? 操さんが心配なの」

 「どうぞ! 待ってますよ!!」

 達子は瓦礫の中をかいくぐって操に会いに行く。






 入り口付近で長靴を脱ぐのは危ない。

  達子は土足で上がり込み、標的の家を物色した。

 奥の方はガレキや粉塵がなくてきれいだ。

 達子が見つけた操は、寝室の布団の中でぐったりしていた。



 部屋はアイボリーと褐色でまとまっているのに、操の布団はグレー、寝間着は薄いイエロー。

 色に鈍感な人も不安定になるだろう。



 操は髪の毛が汚れており、風呂にも入ってないらしい。

 布団の脇に食べ終わったカップ麺のカップと割りばしが転がってる。

 日本人傍観者が何より教育したくなる光景だ。

 達子は操に言った。



 「どうしてやられてるの」

 「あなた誰」

 操は現実にうんざりしているようだった。

 達子は答えた。

 「花村達子。あなたが心配で来たの」

 「あがっていいとは言っていません」



 「心配だったの」

 「帰ってください」

 達子は礼儀知らずを前にして、長靴で地団太を踏んだ。

 「やられっぱなしで悔しくないのかって聞いてるの!」

 「悔しくないです」



 達子は気が付くと操を上から見下ろして仁王立ちし、笑い飛ばしていた。

 「ああ、そうなんだあ! そういう人だったんだあ! じゃあやられて当然だね! あなたがどうして被害に遭ったかわかっちゃった」

 その時、突然あたりが暗転した。



 「また停電。最近多いわね」

 達子は言ってから今が明るい時間帯であることを思い出した。

 ではあたりの暗転は太陽光がふさがれたからということになる。

 窓は?

 入った時はカーテンが開いていた。

 何が起こったのだろう。



 「操さん、大丈夫?」

 「はい」

 達子の質問に、男声が帰ってきた。周囲は明るくなった。

 「操さん?」

 「はい、越川操です」



 舞台は寝室でなく、リビングになっていた。

 さっきの操は見当たらず、達子の前に青年が立っている。

 ローズピンク、ボルドー、導火線の銅のような色を効果的に使った着物をまとい、裾は引きずっていないが、花魁のように純白の前帯を締めている。



 ユニセックスなショートヘアに遊び心のようにつけ毛をして、うなじから鎖骨の方に編んでたらしている。

 女性向けの化粧はしておらず、女装には見えない。



 前帯にはボルドーの柄が鮮血のように刷り込まれ、はかま女子のように白いブーツを履いている。

 全体的に言って、ボルドー、ローズピンクに純白の組み合わせがどぎつい。

 しかし彼の容姿はあでやかでまぶしく、色欲の世界を暗躍する雌白蛇の化身のようだ。



 達子は以前遭遇したベルゼバブを思い出した。

 似てる。

 異界の住人たちはどうして泣きたくなるほど妖艶なのだろう。



 “操”は血色はいいし、どう考えてもさっきの操ではない。

 しかし彼が操といったら操になる。

 達子は甘い熱夢に支配された。



 どこにも音源がないのに気持の悪い音楽が聞こえ始めた。

 ビュウゥゥゥっというエレキギターの音に、ガチャガチャした洋楽が重なっており、女声が狂ったみたいにまくし立てている。





第五章

 操は尋ねてきた。

 「花村さん、悔しがればいいの?」

 「当たり前でしょ」



 途端に操は頭をかきむしって絶叫し、苦しみ始めた。

 「悔しい! 私ぃぃぃぃぃ! 悔しいのぉぉぉぉぉ!!」

 達子は動揺して操を叱り飛ばした。

 「落ち着きなさい!」

 「わぁぁぁぁぁぁ! 悔しい!!」

 「落ち着け! 落ち着けって言ってんだ! 被害者が美しくなくなった!」



 達子は足元に落ちているバットに気が付いた。操が気持ち悪く叫び続ける。

 「あぁぁぁぁぁぁ! 悔しい!!」

 「きゃぁぁぁぁ!」

 達子は気が付くと大絶叫しながら操をバットで殴打していた。



 悔しくないのか被害者に訊ねる傍観者に、被害者の悔しさを受け止める覚悟のある人間はいない。

 被害者がパニックを起こせば、むしろ傍観者の方がよりパニックになる。

 パニックに追い込まれどうするか。

 ――弱者を教育するのだ。



 達子は被害者の無能っぷりが不満で、力の限り殴り続けた。

 「悔しかったらどうしたらいいか考えろ、豚ぁ!!」



 達子が殴打を繰り返した結果、操は横たわって動かなくなる。

 達子が息を弾ませて、雑巾のような操を見下ろした。

 爆発した後の達子に、習慣性に取りつかれそうな爽快感が押し寄せてくる。

 「見たか。傍観者を承認しないからそうなるんだ。感謝だけしてればよかったのに」

 達子は毒づいた。猛烈に被害者が憎かった。



 しばらくすると、操がむっくり起き上がる。

 「花村さん、悔しがるのやめたらいいの?」

 「当たり前だ、ちょっとは人に頼らず考えろ!!」



 操は素直に微笑した。

 「わかりました。もう悔しくないです」

 けろりと答える。

 達子はカチンときた。注文通りなのに被害者に腹が立ってたまらない。



 「それじゃ駄目だって言ってるの」

 操が首をかしげる。

 「今度は何が不満なの」

 「だって悔しいでしょぉ! 何で怒らないんだ。こんなに心配してるのに」



 操は少しだけうつむいた。

 前髪が目の上にかかると何だか不気味で怪しく、化け化けしい。

 彼の唇が口裂け女か、毒婦のように笑った。

 「怒ればいいの?」

 「当たり前だ」

 「怒ってるに決まってるでしょ!」

 操は突然、達子にかみついた。



 達子は動転して爆発の海に飛び込んだ。

 「わぁぁぁぁ! 被害者が美しくなくなった!! 傍観者に攻撃するなんて、なんて礼儀知らずだ」 

 達子は又バットで操を殴打。

 教育も私刑も始め出したら止まらない。

 「悔しかったらどうしたらいいか、考えろって言ってんだ!!」



 しばらくすると操は死んだように動かなくなった。

 そして再び、ゾンビのように起き上がった。

 「わかりました。もうあなたに攻撃しません」

 けろりとしている。

 達子は不安定になる。



 「それじゃ駄目だって言ってるの」

 「どうして」

 「だって悔しいでしょ!! 被害者が怒ってないと不満なんだ!! そこで怒って見せなさいよ」

 「わかりました」

 操はあっさりと答えた。達子は殺意を覚えた。



 操が頭をかきむしる。

 「悔しい、私ぃぃぃ!! 悔しいのぉぉぉぉぉぉ!!」

 「わぁぁぁぁ!! この被害者、傍観者を馬鹿にしてる! 感謝の仕方を教えないと」

 達子が操をバットで殴打。

 気が済むまで殴り飛ばす。






 操は絶命したように静かになったあと、やはりゾンビのようにむっくり起き上がった。

 「どうして馬鹿にされてると思ったの」

 「だって何でも注文通りだから!! ロボットみたいだもの」

 「被害者がどうだったら、あなたの好みなんですか」



 「考えなさいよ!! どうしたらいいか考えるの!!」

 「解決を考えることは、傍観者の気持ちや希望を考えることではありません」

 達子はまた爆発の海に飛び込んだ。

 操を攻撃してないといられない。

 「ああ、そういうこと言うんだあ! あなたがどういう人かわかっちゃった。やられて当然の人だったんだね!! それじゃ助けないから苦しみなさい!!」



 操は顔を覆って泣き始めた。

 「ごめんなさい。助けが必要です」

 「なら、やられてたら駄目だって言ってるの!!」



 操は顔を上げた。すがるように言った。

 「どうしたらいいの?」

 「やり返すの!!」



 その時リビングの入り口が開き、達子が振り返る前に操が稲妻のように移動した。

 達子が気が付くと、操は入ってきた男性を一人、持っていた刃物で貫いていた。

 男性は言葉もなく倒れた。

 鮮血にまみれた操が刃物から血のりを振り払い、達子を振り返る。

 氷のような目をしていた。



 「わかった。あんたの注文通り、やり返したよ。でもこれって、被害者にベストの結末かな」

 部屋に入ってきた人物は操の加害者だった。

 達子は動転した。

 「違う!! 合法的にやり返せって言ったの!!」

 「報復できないのも、慰謝料を受け取れないのも、被害者のせいじゃない」

 「だったら、加害者を見返せるくらい美しく成長したらいいじゃないか。あんたはどうして美しくないんだ!! どうして被害者のままでいるんだ。不愉快だって言ってんだよ!!」



 動揺する達子を操はじっと見つめている。

 余裕で笑っているのか悲しんでいるのか、睨んでいるのかわからない不気味な顔。

 「わかった。あなたの分担は何だ」

 奇っ怪な音楽はいつの間にかやんでいた。

 達子は凍り付く。

 操の前で小さく縮んでいくような気がした。




第六章

 部屋の入り口から私服の青年が入ってきた。

 「被害者が悔しがっても悔しがらなくても、どっちでも制裁してるね。これを支配の一種、ダブルバインドという」

 「仁」

 「はい。ジョーカーの若鷺です」



 達子は彼が猫と遊んでいたことを思い出した。

 相変わらず絵画の中の住人のような容姿をしている。

 今回はタートルネックの水色のシャツがよく似合っていた。



 怪物のような操は意地悪なことを言わずに黙って見ている。

 操と並ぶと仁は甘ったるいビーストマスターのようだ。

 達子は仁に言った。

 「私、支配なんかしてない」

 「そうなんだ。被害者が何と答えたらよかったの?」

 「答えたって駄目よ」

 「どうして」



 仁はファンタジーの生き物に聖職者が話しかけるような口調で訊ねた。

 達子は答える。

 「加害者にやり返さないと」  

 「どうしてそう思うの」

 「だって悔しいじゃないか」

 「それは被害者が決めるんだ」



 達子は動揺した。

 第三者が怖い。

 彼女は仁と二者関係を築こうとして、懸命に主張した。

 「心配して言ってたの。私は夜も眠れなかったのよ?」

 「心配ってね、相手じゃなくて自分の分担を考えることを言うんだ」



 達子は二の句が告げられず、小さくなった。

 仁がたたみかけた。

 「どうして被害者の分担考えたの」

 「わかって欲しかった」

 「どうしてわかって欲しいの」



 達子は下を向いて両手の指をいじった。

 「悔しかったから」

 「何が」

 「加害者が許せなかった」

 「どうしたらいいと思う?」

 「被害者にわかってもらう」

 「それは相手がいないと成立しない幸せだね。あなたはどうしたいの」






 達子は瞬間、善治に会いたくなった。

 善治と一緒なら操をこき下ろして暮らしていける。

 仁は優しいが考えさせる。

 考えるのは怖かった。



 達子は戸惑いながら答える。

 「だって私じゃどうにもできない」

 「どうして」

 「被害者じゃないから」

 「どうしたらいいと思う」

 「被害者にわかってもらう」

 「それは相手がいないと成立しない幸せだね。あなたはどうしたいの」

 前と同じ質問が繰り返された。

 達子はますます考えることになる。



 「加害者をやっつけたい」

 仁がうなずくと、反射の関係で彼の長いまつげが銀色に光った。

 「うん、やっつけたらいいね」

 「やりたくない」

 「どうして」

 「被害者の仕事だから」



 達子は仁のまなざしを直視せず、自分の世界をさまようことになる。

 仁は尋ねた。

 「どうして被害者の分担考えるの」

 「だって私は無関係だし」



 仁は明るく笑った。

 「無関係ならほっといたらいいじゃんね」

 「心配だったの」

 仁が聖母のように優しく促す。

 「心配なら行動しないと」

 「私は関係ない」

 「じゃあ、どうして口を出したの」

 「心配だったから」

 「心配だったら行動しないと」

 「火の粉をかぶりたくない」

 「じゃあ、どうしたらいいの」

 「被害者にわかってもらう」

 「それは相手がいないと成立しない幸せ。あなたはどうなりたいの」

 


 前の質問が三度繰り返された。

 達子は答える。

 「満たされたい」

 仁はうなずいた。

 「被害者じゃない人に言ったらいいね」

 「対等な相手が怖い」

 「どうして」

 「みんなが私を否定する」

 「あなたを否定したの、誰と誰」

 「お母さん」



 仁は黙った。

 天気は不機嫌で操宅の入り口が破壊されたこともあり、部屋は冷たい湿度で覆われていった。

 仁のまなざしは穏やかだったが、砂糖菓子とは程遠いものだった。

 彼は言った。



 「あのね、どんなに苦しくても僕はあなたを助けないよ? おかしいなと思ったら自費でカウンセリング受けてね。凪帰ろう」

 「わかった」

 血みどろのビーストーー操が答える。



 その時、空間が歪んで現場に善治が現れる。

 仕事帰りに探しに来てくれたのかもしれない。

 達子は夫に縋った。



 「あなた!! あなた、私いじめられたの。被害者を心配してただけなのに、責任を取れって言われたのよ!!」



 彼女のベルトを誰かが後ろからつかんで思い切り引っ張った。

 彼女はしりもちをつく。

 次の瞬間、操は善治の懐に躍り込み、胴をナイフで貫いていた。



 善治の断末魔。

 操と善治の接触部がバリバリと放電し、部屋中が振動、明滅した。

 やがて、善治は静かになり、どさりと床に倒れた。



 達子は和装の操が操でないことに気が付いた。

 彼はナイフをくるりと回してしまうと、達子に対して爽やかに微笑した。

 混在していた女性の気配も消えた。

 「さあ、ここからは自力で考えよう」






第七章

 達子はいつもの日常に戻った。

 あの後、善治は一時タンカで運ばれたが、元気いっぱいに帰宅し、傷も残ってない。

 花魁をやっていた操は、実はジョーカー隊員の御門凪とかいう青年が化けたもので、達子が目にした全ての武器は実害のないものらしい。

 武装福祉組織とか聞いている。

 現在びっくりTVのレンジャーを取り調べているらしいが、不可解な集団だ。

 芝居なんかしないで、言いたい事は口で言えばいいものを。



 6月下旬、達子はカウンセリングを受けようとして成浜市大精神科を訪れた。

 自分は病気とは思っていなかったが、臨床心理士に会いたかった。



 午前中はしとしと雨。

 天気予報が曇りだったのと家を出た時は晴れていたので、おろしたての紫のスカートをはいて来て失敗した。

 外来待合席でも同じことをやらかした患者が何人かいる。

 長時間待って達子は呼ばれた。



 診察室の中。

 医師の田中は坊主頭でちょっと太めの40代男性。

 彼女は彼に言った。

 「自分はアダルトチルドレンだと思うんです」

 「違います」



 初診三秒、彼はカルテを広げながら、彼女の目も見ないで答えた。

 彼女は驚いた。

 「違うかどうか、症状も聞いてないじゃないですか」



 田中は彼女と向き合うと、全てを理解しているように笑った。

 「医者をやってるとね、何となくわかっちゃうんです。私はあなたみたいな人を知り尽くしている。だからもう知る必要はない」

 「あなたみたいな人ってどんな人ですか」

 「人に頼ってばかりで、自分の不幸を数えてる人」

 「それは誰と誰ですか」

 「お母さん」



 成浜市大に潜入した牧田は、マイクで診察室の音声を確認してからジョーカー本部に戻った。

 ひさしのある入り口自動ドアの上に引っかかっていたコバルトブルーの帽子を取る。

 風で飛んでしまったのだろう。

 下で困っていた若い女性客に返してあげた。



 彼は目立つ顔でもないのにのっぽで、仲間から大きくなったら隊長になるとからかわれている。

 30代なので、実際大きくならない。



 達子の担当医はジョーカーが用意した役者ではなく、一切打ち合わせをしていない一般人だ。

 精神科医の多くは密室で化ける。

 過去の精神科のイメージを払しょくするため公で語られていないだけだ。



 彼らは患者、被害者を前にすると、医学的根拠に基づかず、“あなたみたいな人を知っている”と攻撃する。

 精神科医の紹介で臨床心理士にたどり着く被害者などいないのだ。



 カウンセリングの道はなまぬるいものではない。

 医師、カウンセラー、ケースワーカー、相談員は多くがアダルトチルドレン。

 情報飢餓状態の被害者は、アダルトチルドレン回復、脱却カウンセラーに巡り合うまで、人生の大半を費やすこともある。

 精神力が続けばの話だが。





 達子はダメージからカウンセラー探しをやめた。

 立ち直るのに、夏場全部を使った。



 秋に入る頃、6か月前応募した彼女の譜面がコンテストで大賞を取ったことを知らされた。

 審査員は大絶賛。

 しかし、その譜面は彼女が15歳の時に書いたものだった。

 当時のパワーはもう出せない。



 その後、譜面だけがトントン拍子に出世してしまい、ハリウッドが彼女の作品を買うことになった。

 彼女の自宅に3億円の収入が転がりこんでくる。

 けれど、達子に未来の保証はない。



 12月になる頃には達子は富豪になりあがっていた。

 しかし善治といつもと変わらない生活をしているつもり。

 平日の朝食の時間、彼女はリビングで愛する夫と焦がしマヨネーズの卵パンをほおばる。

 芳醇な香りを楽しみながら、彼女は笑った。

 「武藤由梨花! 落ちたよね」

 「うん、あなたが落ちないようにすればいいんだ」



 達子は夕方、買い物から帰った。

 先に仕事を終えた善治が待っていた。

 お土産だと言って、達子に大好きな女性誌の最新号を渡してくれた。

 表紙には、ゴシップだらけのどぎついコピーが乱立する中、第一線のモデルが黄緑のコートをあでやかに着こなして立っている。



 達子はいつもと変わらない夫だと信じた。

 先日ドラッグ所持で捕まった二世俳優をこき下ろす。

 「道夫は自分に負けたんだね!」

 「うん、あなたが自分に負けないようにすればいいの」

 彼が乗ってこない。



 彼は休みの日の正午過ぎ、縁側に出てピンクの冬の花を観賞していた。

 傍らにヒーターを出して冬装備でお茶と温かいぜんざいを楽しむスタイル。

 達子が盆を持っておやつ追加のサービスに出向くと、そこへ近隣の若い女性、美里が、相談したいと言って訪ねて来た。

 細身長身でセミロングの癖っ毛がキュート。



 「善治さん、私仕事はできるけど、家事が嫌で嫌でたまらないの」

 善治はぜんざいを置いて、美里に優しく笑った。

 「何か原因があるね。どうして嫌なのか、自分に聞いてあげてごらん」

 「どうやって」

 「やり方を教えるよ」



 善治は今年の六月、タンカでジョーカー本部に運ばれた時に、時空を渡る能力を封印された。

 そして同時にカウンセリングを受け、帰宅する頃にはすっかり善人になっていた。

 指名手配犯の罪も問われず、現在はご近所の清掃員に転職。

 彼は達子を置き去りに、みるみる町の人気者になりあがっていた。





 達子は満たされずインターネットを検索し続ける。

 年始明けの晴れた日に、次の被害者、大崎みなみの心配と応援に繰り出した。

 男性被害者も存在するが、ちょっかいを出すなら女性の方が簡単な気がする。

 午前十時、モスグリーンの屋根のみなみ宅のインターホンを押し、門扉を開けた彼女に言ってやった。



 「やられっぱなしで悔しくないの?!」

 「花村さん」

 「何」



 若いみなみは華美でない服装で、ほっそりしていた。

 駄目出しすることろがなく、物語の中のお姫様のようだ。

 みなみは落ち着いて、達子ににっこり笑った。



 「私、美しくなくていいんです。あなたと同じですよ」

 達子はパニックを起してその場から道路へと走り出した。

 「承認して、私を承認して!!」



 走っていると、探した覚えもないのに次の被害者女性、井上いずみ宅にたどり着いた。

 いずみはアパートの玄関前にいた。

 達子は心配するため、標的に食ってかかった。

 「悔しくないの?」



 いずみも若い。

 ほっそりと美しい容姿で、寓話の中のヒロインのように穏やかに答えた。

 「それは私が決めることです」



 達子はさらに相手を焚きつけにかかった。

 「だって悔しいでしょお! 私は心配で夜も眠れないのよ?!」

 「心配ってね、相手じゃなくて自分の分担を考えることを言うの」



 明子はパニックを起こし、その場から走り出した。

 「承認して、私を承認して!!」




 道路は次第にぐにゃりと曲がり、空と大地の境界がわからなくなった。

 達子は気が付くと森の中を走っていた。

 血液が沸き立つような音楽が世界を支配している。

 うなりを上げるドラム、和太鼓、叫ぶパーカッション。



 彼女のコーススレスレを、燃え上がるような柄の着物女性が、高速で躍り狂って通り過ぎる。

 危うく衝突するところだった。

 長屋に火をつけたお七だ。

 結い上げた髪が崩れかかり、日本舞踊と違う踊りに狂気を感じる。



 達子がそれでも動転して走っていると、視界に水色の着物を着たおつうが迫ってくる。

 たらした癖のある長髪が濡れており、なんだか理由がありそう。

 おつうはうつむいた姿勢のまま、達子の前でぐんぐん巨人に肥大してゆき、達子を見下ろしたかと思うと、高らかに哄笑した。

 達子はそれでも走った。



 右サイドの木陰から白兎が飛び出してくる。

 パステルイエローの服装に和の要素。彼は叫んだ。

 「被害者、被害者はどこだ」

 左サイドの木陰から、同じコンセプトのまま、サーモンピンクで着飾った帽子屋。

 「被害者がいないと生きてゆけない」

 両者は達子の左右で踏み切ると、宙替えって頭上で交差、華麗に着地。

 その後思い思いの方向に姿をくらませてしまう。



 走る達子の前で森が開けた。都会の一軒家の前に、次の被害者、40代の桧山霞が立っていた。

 霞はほっそりとして淡い赤紫のワンピース姿。

 神話の中の聖母のような表情。

 音楽がやむ。

 達子は安堵して止まると、霞にかみついた。

 「あなた悔しくないわけ?」



 その時、誰かが達子の胴体を後ろからがっちりつかんだ。

 達子は気が付くと、ボブカット制服姿の小柄なジョーカー女性隊員にジャーマンスープレックスをお見舞いされていた。




 不幸中の幸い、達子は無傷で済んだ。

 彼女は満たされず、2月上旬、ちょっと雲行きのあやしい日に、次の若い被害者、大角環奈の心配と応援に繰り出した。

 午前十時、インターホンで家から出て来た環奈に牙をむく。



 「私は悔しい。あなたは悔しくないの?」

 「悔しいです」

 反撃がなかったので、達子は嬉々として叫んだ。

 「じゃあやり返したらどうなんだ!!」



 その時、吹雪の竜巻が起こった。

 環奈も彼女の自宅も達子の視界から消えてしまい、代わりに若い男性が現れる。

 


 淡い青紫の着物に、ボルドーの柄が鮮血のように刷り込まれた純白の前帯を花魁のように占めている。

 真っ白なブーツがまぶしい。

 

 

 ユニセックスなショートヘアに遊び心のようなつけ毛。

 女装には見えず、容姿は蠱惑的。

 彼を知っている気がしたが思い出せない。

 風はやんで一面銀世界。



 「HI、達子さん!」

 彼はうるんだ雪の結晶か、小悪魔のように笑った。

    「あいつは助けないって言ったけど、おれはどうかわからないよ?」



(終わり)