真矢は若い雌のカメムシだった。カメムシたちは美しい容姿と金、城、権力、リーダーシップのある人間の男性、富雄が大好きだった。
世界は四角く、海に囲まれている。富雄たちが住んでいるのは東の方だった。季節は春。桜の木々喜びを花に変え、高い空では鳥や虫たちのつがいが熱烈にむつみあっている。雌のカメムシたちはいつも富雄を囲んではべっていた。彼は言った。
「ブスってひがんでばかりだよ。自分を磨く努力を全然しないで、嫉妬ばかり。だからブスなんだ。女性は美しくなければならないよ。でも見た目の美醜の事は言ってないよ。自分を磨くか、磨かないかだよ」
カメムシたちは若い女性の中で醜い小町を攻撃した。公衆トイレの前に追い詰めて口々に罵倒した。真矢はいつも雌のカメムシ主犯にごまをすって暴力を満喫していた。
「自分を磨く努力もしないで」
「ちょっともきれいにならないで」
「ブス許さない」
「私、ブス大嫌い」
「あたしって可哀相って思ってるんでしょ」
「だからブスなんだ」
真矢の欝憤のはけ口に、被害者と被害者を提供してくれる雌の主犯はいつも必要だった。けれど主犯は真矢も支配する。真矢が願った通りに可愛がってくれない。真矢が満たされる日は永久に来なかった。
小町は自宅に帰って泣いた。
「もっときれいに生まれていたらこんな目に遭わなかった。きれいな人は何でも持ってる。きれいな人が憎い」
そこへ一人の青年が現れた。透き通った肌に洗いざらしの古典的な白いローブを羽織り、華美でない装飾品をつけ、葦のサンダルを履いていた。ローブと言っても身軽な姿で、貴人の見習いのように見える。容姿は細く愛らしく、背後に後光がさしていた。
「誰」
「僕は天使のリン。あなたを攻撃したのね、美人じゃないよ。確かにきれいだったけど、カメムシだよ」
雨季が訪れた。草木は夏を予感し、水分を全身に回して身体を震わせた。大地は潤って、いたるところで聖なる清水が流れ始めた。真矢達カメムシは競って楽しい色の傘をさして、富雄の目を引こうとした。ある日、富雄は言った。
「デブってひがんでばかりだよ。もっと可哀相な顔したブスが山ほどいるのに、自分を磨こうともしないで、不幸に酔いしれているんだ。おれデブ大嫌い。女性は美しくなければならないよ。でも見た目の美醜の事は言ってないよ。自分を磨くか、磨かないかだよ」
カメムシたちは若い女性の中で太った環奈を攻撃した。公衆トイレの前に追い詰めて口々に罵倒した。真矢はいつも雌の主犯にごまをすって暴力を満喫していた。
「もっと可哀相な人がいるのに」
「あたしって可哀相って酔いしれてるんだ」
「自分を磨く努力もしないで」
「私、デブ大嫌い」
「消えろ」
環奈は自宅に帰って泣いた。
「もっと細かったら攻撃されなかった。きれいな人が私から全てを奪って行く。きれいな人って凄い性格してる。きれいな人は残虐。きれいな人は甘やかされてる」
そこへ青年が現れた。
「誰」
「僕は天使のリン。あなたを攻撃したのね、きれいな人じゃないよ。確かにきれいだったけど、カメムシだよ」
真夏の果実が熟れる頃になった。地上の生命たちはエネルギーを授かり、太陽に見守られ青春を謳歌した。真矢達カメムシは開放的な服装になり、競って肌を出して富雄の目を引こうとした。入道雲の真下で、富雄は言った。
「美人って凄い性格してるんだ。甘やかされて苦労したことがなくて、恐ろしい差別をするんだよ。そして現状に甘んじて、自分を磨く努力をいつも怠っている。女性は美しくなければいけないよ。でも見た目の美醜の事は言ってないよ。自分を磨くか、磨かないかだよ」
カメムシ達は若い美人の里穂を攻撃した。公衆トイレの前に追い詰めて口々に罵倒した。真矢はいつも雌の主犯にごまをすって暴力を満喫していた。
「甘やかされやがって」
「苦労したことないで、あたしって可哀相って思ってるんだ」
「愛されてるくせに。社会に愛情還元しろって言ってるのがわからないのか」
「感謝の仕方を教えてやるよ」
「許し、愛し、感謝して、持たざる者に謝罪しろ」
里穂は自宅に帰ってから泣いた。
「聖職者の役割分担を要求される。感情労働を求めるならお金を頂戴。金だよ。金をよこせ。醜い人が憎い。私、醜い人、一生許さない。地獄に落とす」
そこへ青年が現れた。
「誰」
「僕は天使のリン。あなたを攻撃した人ね、醜い人間じゃないよ。確かに醜かったけど、カメムシだよ」
(続く)
長雨の季節がやってきた。生ぬるい不快な嵐が叩きつける日に、真矢は空と同じに機嫌の悪かった富雄に嫌われた。彼は唾を飛ばして言った。
「このブス! きれいになる努力もしないで、心までブスだよ。寄ってくんな」
カメムシたちは富雄に気に入られるために、真矢に攻撃した。
「きれいになる努力もしないで」
「自分を磨かない女は転落するんだ」
「私、ブスって大嫌い」
真矢は加害者達に壁際に追い詰められて叫んだ。
「違う! 私は被差別階層じゃない! 差別する方だ! 攻撃されるのはおかしい! どうして攻撃するの? 差別してれば安全は約束されてたんじゃないの?!」
真矢はボコボコにされて一人になった。
「もっときれいに生まれていたら差別されなかった。美人が憎い。美人が私からすべてを奪っていく。死んでも美人を許さない」
そこへ青年が現れた。
「誰」
「僕、天使のリン。あなたを攻撃したの、美人じゃないよ。男性とカメムシだよ」
幸雄は城を持たない若い男性で、はべってくれる女性もいなかったが、男性の仲間と楽しくやっていた。女性たちはブス、デブ、美女の派閥を作っていつも争っていた。幸雄たちはそれを面白おかしく眺めていた。
「女性は仲間を蹴落とすのが好きだね」
「一人を仲間から外すのも大好きだね」
幸雄は言った。
「そこがかわいいんだ。結束しなきゃ永久に男に勝てない。女は馬鹿な方がかわいいよ」
その時、仲間内に割って入る声があった。
「女性に偽りの正義と安全を与え、結束を奪ったのはあなただよ」
「誰だ」
幸雄たちの前に青年が現れた。
「僕、天使のリン。あなたは楽しいの?」
幸雄は笑って答えた。
「ああ、楽しい。男に手向かえない女を愛でるのは本当に楽しい」
リンは事態を静観した。女性と雌のカメムシには境界がない。互いに区別がつかないからだ。彼女たちは見た目の派閥を作って血で血を洗う戦いを繰り広げた。勝てば男性から社会的地位をもらえる。負けたら転落する。
冬になった。リンはファーのついたパステルブルーの温かいコートに身を包み、彼女たちの所へ行った。彼女たちの吐く息は白かったが、たとえ温かい雨季だったとしても同じ息を吐いていただろう。凍っているのは彼女たちの心臓。彼は告げた。
「あのね、女性が結束しなかったら、自己防衛手段として差別一択しか残ってないんだ」
彼女たちは囁きあった。
「そうだ、差別しよう」
「差別してれば差別されない」
「差別されたから差別しよう」
「最初にブス、デブ、美女を採点したのは誰?」
彼女たちは共通の敵に目覚め、富雄を城から引きずり下ろした。その後、彼女たちが攻撃した彼の城はあっけなく崩壊した。
「よくも差別したな」
彼女たちは言いながら、富雄を差別した。
(続く)
富雄は報復に遭って、四角い世界の南端に追いやられ、一人になった。世界の四隅には季節がない。いつも冬だ。ただし豪雪地帯は他にある。四隅の最果てはだだっ広い所で、人が住まないのにゴミは散らばり、いつも木枯らしが吹いている。
富雄は地面に手をついて絶望していた。女性陣に身ぐるみははがれ、靴は片方だけになった。地面に置いた裸足が冬の冷たさに痺れて、じんじん悲鳴を上げた。
「おれは悪口が言いたかっただけだ。女性だって愚痴を垂れるじゃないか」
その時、見知らぬ青年が現れた。
「誰だ」
「僕、天使のリン。弱者の世界は羨ましいかい?」
リンは若く麗しく、富雄にはまぶしかった。富雄は優しさを求めた。
「羨ましいよ。守ってもらえて安全じゃないか」
「そう見えるかもしれないけどね、強者の世界と同じにメリット、デメリットがあるんだ。強い立場のまま、弱者のメリットだけ満喫することはできない」
リンは優しい声をしていた。けれど、瞳はあまりに理性的で、富雄の求めた善悪を超えた愛情はくれなかった。
「弱者の真似して罪のない誰かを裁いたら、盤石だった足元が崩れる時が来る」
富雄は泣いた。
「ちょっと、真似しただけじゃないか。一人がつらかったんだ。仲間が欲しかったんだ。孤独と責任はもう嫌だ!」
「僕ね、あなたをカメムシにできるよ」
富雄は耳を疑った。
「本当?」
リンは無垢な瞳でうなずいた。
「うん。カメムシだったら悪口を満喫できるよ」
富雄は希望を見つけた。すがるように言った。
「なる! カメムシになる!」
「群れることはできるけど、差別の世界で暮らすことになるよ」
天使の言うことは富雄にとって何の問題もないことだった。
「いい! ずっと差別する方になるから! 差別してれば差別されない! 死ぬまで差別する!」
「わかった。仲間をあげる」
富雄は天使の力でカメムシになった。
「もう悪口言っちゃいけないって人はいないよ。仲間もたくさんいるよ。あなたにはあなたの幸せがある」
富雄はカメムシの世界に飛び立ち、恋人と小さな幸せを見つけた。
ボコボコにされた真矢は世界の北の最果てに追いやられた。地面に手をついて一人で泣いていた。彼女も身ぐるみをはがれ、代わりにゴミの中から見つけたぼろの毛布をかぶっていた。
「安全が欲しい」
そこへ天使のリンがやってきた。
「手に入れたらいいよ」
彼女は言った。
「差別してないといられない」
「じゃあ、差別されるよ」
「安全を手に入れるにはどうしたらいいの」
リンは宇宙の深淵のような瞳をしていた。
「僕ね、あなたをカメムシからトンビにできるよ。でも対価を払ってもらうよ」
「対価って何」
「現在、あなたの血となり肉となっているもの。群れを僕に払ってもらう」
「一人になるの?」
「そう。これからはたった一人。もう、あなたは悪くないって言ってくれる人はいない。善悪は一人で考える」
真矢は泣いた。
「怖い」
「無理は言わないよ。怖かったら仲間といたらいい」
「差別から自由になりたい」
「なら、醜い仲間を捨てなさい」
真矢はべそをかいた。リンは優しく説いた。
「トンビの仲間はね、高い高いところに住んでいるんだ。ずっと一人じゃないよ。思いっきり空を羽ばたいて、誰かを守ることを考えてごらん。差別しない仲間が迎えてくれるよ」
「トンビになりたい」
「なれるとも」
「変わりたい」
「変われるよ」
「私、トンビになる」
リンは真矢に近づいて、彼女の首に両手を回した。彼女が何か外れたと思った時、彼は開錠された鉛の首輪を持っていた。
「これが今までの仲間。あなたはもう孤独で自由だ。いつか必ずトンビの仲間に会える。飛んでいきなさい」
真矢は全身にエネルギーがみなぎるのを感じた。少し翼を広げたつもりになったら、もう天使はおらず、地上は遙か雲の下に広がっていた。自由の歓喜で心が満たされてゆく。トンビの真矢は、もはや恐れる孤独もなくなり、どこまでもどこまでも飛んで行った。
(第一部完)
里穂は天使に遭遇した後も仕事帰りになると、バットを持った近所の女性陣に囲まれて攻撃を受けていた。雷鳴がとどろく豪雨の日は公衆トイレの外の壁際に追い詰められる。トイレは大型で、隣の休憩スペースと合体しており、大きな雨よけがあった。加害者たちは口々に言った。
「甘やかされやがって」
「何だ、その汚らしい顔面アトピー」
「そんなひどい顔じゃどこにも出せない」
「心が汚いからアトピーになったんだ」
「お前のせいでアトピーになったんだ」
「持って生まれた素材を台無しにして」
「顔を直せ!」
「不愉快なんだよ。顔を直せ! 恵まれてるくせに」
「苦労したことないで、あたしって可哀相って思ってるんだ」
「愛されてるくせに。社会に愛情還元しろって言ってるのがわからないのか」
「顔で気を遣え」
里穂は尋ねた。
「どうしてそんなひどいこと言うの」
加害者たちは答えた。
「きれいだから心配して言ってるんだよ」
「私、絶対美人を許さない」
里穂は再度尋ねた。
「本当に心配してるの?」
加害者の一人、歩美は子供のように素直に、まっすぐ里穂を見つめた。「うん、してる。美人絶対許さない。いつも怠けてるから心配なの」言いながら、濁り切った汚らしい目をしていた。
歩美は里穂のアパートの近所に住んでいる。極端に太っているが、一年中、流行の勝負服を循環しており、愛らしい見た目をしていた。もう小さな子供がいてもおかしくない年齢だったが、物欲が強すぎて、経済的に親から独立出来ていない。彼女はアダルトチルドレン回復カウンセラーに巡り会えないまま、毎日親の愛情不足に不満を垂れていた。
同世代の加害者、朱里は既婚者で、家事、育児、介護、仕事をこなし、看護師のような優しい性格が町で評判のスーパーウーマン。あまりにも自分を追い詰めすぎて、二つ目の顔を持っていた。
「きれいなんだから努力しろ」
里穂は朱里を睨んだ。
「私が二目と見られない醜い顔をしていたら、あなたは何と言って攻撃するの?」
「汚いんだから努力しろって言うに決まってんじゃん」
「あなたの分担は何ですか。あなたの分担を言ってください」
「私たちは苦労したからもう努力しなくていいし、分担のない人間なんだ」
若い加害者の中に、豚の顔、猿の顔をした者もいた。被り物ではないし、アニメや漫画のようにデフォルメされた、ファンシーなケモノキャラクター、というわけでもない。愛情を注がれないで育った、リアルな家畜と獣の顔だった。二人は朱里に続いた。
「そうだよ。醜い女の分担を考えて、美しい女の分担を考えて、いじめ、暴力、虐待被害者の分担を考えて、相手に痛みの教育をし続けていれば、分担のない豚みたいな仲間の中にいられるんだ」
「苦労してない人の分担考えて、本人が悪い人の分担考えて、相手が自分の好みを“知らない罪”について、サルのマスターベーションみたいに考えて、楽しく人生を送るんだよ」
里穂は冷静に告げた。「分担のない人が私の分担を考えるのはおかしいよ」次の瞬間、朱里にバットで殴り飛ばされていた。
――被害者の見た目が加害者にとってあまりにもショッキングだった場合、史実にあるように『理解できないから敵』とされる場合はある。しかしそうでない限り、加害者の多くは被害者の見た目が動機で攻撃しているのではない。嫌いだから攻撃しているのだ。
加害者が攻撃対象に向かって見た目の話を持ち出すのは、傷つけるのに効果的と知ってるから、というだけである。里穂は醜い者と美しい者が加害者――病人に踊らされて争うのは無益と知っていた。加害者たちは口々にさえずった。
「おい、こいつ、生意気に考えさせるぞ」
「せっかく楽しく思考停止してるのに、考えさせる奴がいたら不安定になる。結束していられないじゃないか」
「危険分子だ。口答えできないように、ボコボコにしてやれ」
加害者たちはバットで里穂を殴打し始めた。
「きれいな女が心配だ」
「きれいな女が心配だ」
「早く感謝の仕方を教えないと。心配で胸がつぶれそうだ」
里穂はぐちゃぐちゃのミンチになった。でも生きていた。
(続く)
里穂は五十代の長身男性恩師、辰雄と文通していた。辰雄はイケメンというわけではなかったので若い頃、苦労したかもしれない。しかし、テニスが趣味で、五十代で背筋がしゃんとした長身、となると、人生の後半は結構なモテ要素の持ち主だった。妻子がおらず、恋愛は得意ではないようだが、愛情は何も、恋愛の形でやってくるわけではない。
里穂は春の嵐が去り、美術館前の公園で久しぶりに彼と会う機会があった時に、いじめ被害の相談をした。雲一つない青空に恵まれた正午だった。彼は言った。
「みんなあなたが羨ましいのです。あなた得してるんだから許せるでしょ」
「私に美しさを求めないでください」
「だって守ってくれる人、いるんでしょ」
彼はにっこりと笑った。里穂の目の前で、彼の後頭部がメリメリと膨らみ出した。
「どうしてそう思うんですか」
「だって美人ってそうだから」
「あなたの知ってる美人って、誰と誰ですか」
「お母さんと、私の小学校時代のいじめ加害者」
彼の後頭部はバランスボールの大きさになった。
「私、その人じゃありません」
辰雄はやはり笑っていたが目が座っていた。
「黙れ、クズ女。醜い女性に比べたら将来を約束されてるじゃないか」
「もらってもいない将来のために、養ってくれてもいない人に代価を払うのはおかしいです。そして、あなたは醜い女性のためと言って自分の取り分を要求している」
彼の後頭部は直径が1メートルくらいになった。彼は自分を慰める時のように、興奮でほほを紅潮させ、呼吸を弾ませて激しく両手をこすり始めた。瞳はぬらぬらといやらしく光っている。
「美しいんだから許したらいいじゃないか」
「私に美しさを求めないで」
「この世の幸せを独り占めしやがって。目にもの見せてくれる」
「暴力の被害者はいかに美しくとも社会が抹殺するんです」
「それ被害妄想って言うの。嘘つくんじゃないよ、豚女。ンッ、アッ、ウッ、あーーっ!!」
辰雄は排泄をする瞬間のように、意外と気持ちよさそうにいきんだ後、絶頂を迎えて叫んだ。すると彼の後頭部が爆発して、中にびっしり詰まっていた数千匹のハエの群れが舞い上がった。彼の内部で蒸れて衛生状態も劣悪だったらしく、強烈な悪臭が蔓延した。
ハエの群れは黒だかりの螺旋を描いて、楽しそうに飛び去って行った。彼は排泄を済ませると頭蓋を修復して、里穂に優しく笑った。あまりにも開放的な瞬間だったらしく、充足でうるんだ目をしていた。里穂はぞっとした。
「先生が私を憎んでるのはわかりました」
「憎んでなんかいないよ。あなたが妄想を持つから心配してるんだ。あなたの言ってることは全部大嘘。大ホラ。きれいなのに、どうして私の思った通りのことを考えてないんだ? あなたが妄想から卒業できるなら、私はあらゆる協力を惜しまないよ」
(続く)
里穂は恩師にも差別されて、自宅に帰ってから泣いた。もう文通する気もない。
翌年の2月。
「羨ましかったんだ」
「だから何ですか」
「許して欲しいんだ」
宵の刻だった。里穂は浅瀬の上にかかる橋の上で辰雄と対峙していた。彼とはあくまで男女の関係ではなく、彼は純粋な師弟の関係回復を望んでいた。空気は痛いくらい澄み渡り、吐く息が白かった。
彼女は答えた。
「嫌です」
「どうして」
里穂は辰雄の片手に握られているバットを見た。
「あなたは自分が思ってるほど美しくありません」
辰雄は真珠のように清らかな涙を流していた。
「羨ましかっただけだよ。美しい話じゃないか。悲しいだけじゃないか」
「違います」
辰雄は泣くのをやめ、里穂をにらんで恨めしそうに呪いを吐き始めた。
「ああそうかい。結局お前は私のお母さんと小学校の時のいじめ加害者と同じだよ。美人って結局そうなんだ。私は最初から知っていた。そうだ。知っていたんだ」
辰雄の両耳からハエの群れが飛び立ち始め、同時に悪臭も噴き出した。辰雄は興奮して叫び始めた。
「私は美人の全てを知っていた。でも信じるんじゃなかったと思う。私は美人の全てを知っていた。でも信じるんじゃなかったと思う。うぉぉぉぉ! 何だ、この気持ちよさは!」
彼は乱心してバットを振り回し始めた。
「私は美人の全てを知っているが、実は裏切る美人と裏切らない美人の二種類しか知らない。
美人が想定外の行動や言動をした時は、裏切りかそうでないかに振り分けて、集団で裁く。これを偶像崇拝という」
辰雄はバットを地面に振り下ろした。途端に轟音が炸裂し、石橋にクレーターができる。彼はいい気分になったらしく、次々とクレーターを作り始めた。里穂に対するパフォーマンスだ。
里穂はアルコール依存の祖父がいたので、幼少期に辰雄のやっているような力の誇示をよく見せられた。彼らは弱者にパフォーマンスすると自分が強くなった気がする。
辰雄は続けた。
「ぶん殴って全てを忘れてやる! そうしたらまた美人を信仰する無垢な少年に戻れる。悪いのは裏切った美人で、裏切らない美人がどこかにいるんだ!! 私はそれ以上考えない。今まで通り、自由になるんだあ!!」
辰雄が里穂に襲いかかった時だ。何か大きな物体が飛来して辰雄から武器を奪い、同時に彼を蹴飛ばした。里穂は声を上げた。
「トンビ!」
現れたのは女性の鳥人。翼で上手に前進、後退しながら、かかってきた辰雄に棒術で応戦している。辰雄が素手だったのでトンビは穏便に撃退しようとしているらしい。しかし、辰雄は怒り狂っているうちに、全身の関節が外れたみたいな、人間離れした動きをするようになった。彼の背中が爆発して数線匹のハエがあふれ出す。
トンビは素早く背中に翼を収納すると、たちまち旋回してバットを横一閃、辰雄の胴体を両断した。里穂は目を見張った。トンビが翼をしまったのは空気抵抗を防ぐためだ。しかし、鈍器のバットで剣のように人間を両断するとは。
辰雄は胴体が上下に離れているにもかかわらず、仁王立ちのまま絶叫した。そして、昇竜のような青い火柱になる。彼の断面からあふれたハエたちは、一瞬で焼かれていった。
青い熱風が里穂に襲いかかってきた。トンビが里穂に覆いかぶさってかばう。熱風がやんで里穂が再び目を開けると、火柱は幻のようになくなっていた。身長が50センチくらいに縮んだ辰雄が悲鳴を上げて逃げていくところだった。
里穂は救世主と一緒に上体を起こした。あたりを見回すと、周辺の住宅の屋根、軒に、別の女性トンビが二人待機していて、里穂たちに笑いかけている。里穂は救世主に訊ねた。
「あなたは」
満月が恥らいながら顔をのぞかせ始めていた。里穂をかばった若い女性トンビは、艶めく素肌で少年のようにまぶしく微笑した。瞳は知性にあふれていた。
「私は真矢。助けに来たよ」
(終わり)
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から