雨傘と道化師

 鶴ヶ峰バスターミナル四番乗り場は、やってくるバスと乗り場の間に人間の腰の高さほどの柵がある。

 さらに乗客が並ぶ順路とバスに挟まれて、柵に沿うように横長のベンチが設置されていた。



 背もたれはない。

 好きな角度から座れる。

 ベンチに腰掛けた老婆は柵とベンチの隙間に足を置いて、バスターミナルを眺めていた。

 


 「お婆ちゃん、それじゃバスに乗れませんよ。こっちにいらしてください」

 「おや、ありがとう。親切なお姉さん」

 


 老婆は順路にやってきた若い女性に声をかけられ、バスターミナルに背中を向ける形で順路向きに掛け直した。女性同士でおしゃべり。

 


 「どこまで乗るの?」

 「私、今宿小学校前」

 「私は宮ノ下よ」

 


 バスがやってきた。

 老婆は腰を上げて、列に混ざった。

 もし順路に背中を向けバスターミナルを見物していたら、順番から外されてしまうところだった。

 老婆を含めた順路組の後ろに、後続の乗客が列を作って続いた。




 一年後、四番乗り場の乗客は、バスターミナル側を向いてみっちり座る隙間組と、彼らと決して混ざることのできない順路組、事実上の二列に分かれた。

 しかし、どちらが先にバスに乗るか、決めた人間はいない。




 樹七果は二十代、クリーニング屋で働いている。

 鶴ヶ峰住人の町ぐるみの集団ストーカー行為に苦しんでいた。

 周囲に被害を訴えるとあっさり統合失調に仕立てられ、孤立した生活を送ることになった。



 その後、ブログを始めた。

 鶴ヶ峰バスターミナル四番乗り場は彼女が通勤に使うのだが、その彼女を標的としたいじめの温床になっていた。



 


 季節は夏の終わり。

 バスターミナルでは街路樹で蝉達の一世一代大絶叫が繰り広げられ、太陽がジリジリと照りつけた。

 Tシャツまで焼き切れそうだ。

 


 彼女のボブカットは自分で切ったもので、形はガタガタだった。

 どの美容院でもセクハラ攻撃に遭うのでしばらく伸び放題にしていたが、こう熱くては切らないわけにはいかなかった。




 彼女は自分に言い聞かせた。

 キレたらだめだ。

 キレて傷害事件を起こしたら、一生加害者の烙印を押される。

 そうなったら自宅で盗撮された彼女のヌード画像は彼女が豚になろうと病気になろうと、死ぬまで海外でストーカーの食い物だ。


 

 ある日の朝、七果は隙間組がバスに近いので、そちらに並ぶことにした。

 しかしバスが来ると隙間組は微動だにせず、おしゃべりを展開する。

 七果はバスに向かって前進しようとしたが、隙間組とバス停の柵が密着しすぎている。

 バス停には屋根があるので、それを支える柱も障害になった。




 本来の順路ではないのだから、人間が人間を追い越せるコースではないのだ。

 七果が困っているにもかかわらず、隙間組の老人達は腰をあげず、足を伸ばした。尻に接着剤でもついているかのようだ。

 


 そうこうしているうちに七果の背後で順路組が動き出し、バスに乗り始めた。

 七果は前進を阻まれた結果、先に並んでいたにもかかわらず、順路のさらに後続の最後尾につくことになった。

 そして、誰も彼女に同情しなかった。




 七果は夕方、同じバスで職場から帰って来た。

 彼女はバスターミナル出口直結のコンビニ、イレブンナインをよく利用した。

 そこで雑誌を眺めながら、しょんぼりしている時だった。




 彼女と同世代の男性が、体がくっつくほどの距離で商品を物色している。

 よく見ると顔は女性のように整っているし、細身で体格もいい。

 しかし素行と服装がステレオタイプに考えられた方のオタクっぽく、真面目にオタクやってる好青年たちを愚弄するかのように不審者めいている。




 七果が気のせいかと思って移動すると、ついてきた。

 彼は彼女に用があるとは言わないのに、彼女が移動するたびピッタリ接近してきて商品をあさるのだ。

 彼女は彼によって店から押し出されるよりなくなった。

 



 七果はこの手のストーキングに疲れ果てていた。

 雨が降ってきたのに傘までなくて、惨めなことこの上ない。

 彼女は歩き出してさらに度肝を抜かれることになった。

 ストーカーがやっぱりついて来る。




 表情と動きが緊張でコチコチなのは集団ストーカーにしては前例がなくて新鮮だった。

 しかし彼だっていつかストーキングが板についてくるのだ。

 彼女は決然と彼の前に立ちはだかった。

 「何ですか」

 


 ストーカーはガチガチに緊張しながら、手提げから何か出した。

 「んっ。」

 彼は彼女の手を掴んでそれを握らせる。

 折りたたみ傘だった。

 そしてキョロキョロしたかと思うと、雨にうたれながら猫のような素早さで走って行ってしまった。

 彼女はあっけに取られて見送った。




 佐竹は翌日、新人の八木の頭をスリッパですっぱたいた。

 「なんで親切にするんだよ!」

 「女性は腰を冷やしたらいけないと思って」

 「阿呆! こっちは自殺教唆やってんだ! 足を引っ張るんじゃない」

 「すみません」

 


 佐竹は三十代、友の会鶴ヶ峰支部の代表である。

 友の会は人権のないターゲットの拷問データを、本人が自殺するまで各国の学者に売りさばいて会を大きくしてきた。

 ついでにターゲットの盗撮ヌード画像も海外で金に変えている。

 しゃぶれるだけしゃぶり尽くすのだ。




 会のノウハウでターゲットを統合失調に仕立てれば、人権などあっさりなくなる。

 国は患者を養護していると主張するかもしれないが、病人の烙印を押されたターゲットが『攻撃を受けている』と主張して、真面目に捜査する人間はいない。

 


 人間以下の実験体の拷問データを欲しがる学者、医者はどの国にもいた。いつの時代も戦争はあるし、戦地でなくとも医療の発展のため拷問データには一定の需要がある。



 ターゲットは稼ぎのために美しい女性が選ばれることもあったが、本当のところは醜かろうが男性であろうが関係ない。

 健康な人間が長期に渡ってじわじわ醜く崩れていく映像を嗜好する客はいるのだ。

 ーー友の会は別名、死の商人と呼ばれる。

(続く)


どちらでもいい

 ある日の朝、七果は順路を守ることにした。

 隙間組が先に二人座っており、順路側に誰もいなかった。

 七果は座るつもりはなかったので順路側だが、隙間組の二人の後ろにつくつもりで、ベンチに荷物を置いて並んだ。



 当然順路先頭は二人分スカスカになるので七果が並んでいると思ってくれる人はいない。

 順路先頭に誰かが立った。

 七果は言った。「並んでください」あとから来た客は舌打ちして七果の後ろについた。

 七果が紛らわしいことをしているマナー違反者のような目で見られた。




 別の日の朝も、七果は隙間組の後ろに荷物を置き、順路に並んだ。

 すると当然、隙間組の人数分、順路側先頭はスカスカになった。



 どんなにひどい仕打ちを受けても、七果が隙間組の方に回って座ると不利だった。

 休んでいるだけでバスに乗る予定のない客と間違えられても言い訳できない。

 列から外されてしまう危険が高かった。七果は順路側一択しか選べなくなっていた。

 彼女の後から来た老人が七果を無視して隙間側に腰かけた。七果は荷物を挟んで順路側に立っているだけになった。



 佐竹はバスターミナルを見渡せるマンションの一室で、八木を下働きに七果を監視していた。

 四番乗り場のいじめはもちろん末端が考えることではなく、佐竹が指令を出している。

 けれどマニュアルを作っているのは厳密には拷問研究で生計を立てている心理学者だ。




 マンションの部屋はエアコンが効いていて、酷暑の乗り場とは快適さが天と地ほど違う。

 「隙間組の方が正規の並びで七果さんは割り込んだみたいな形になりましたね」




 八木の言葉に、佐竹はおどけて返した。

 「誰もそんなこと言ってないぞ。後から来た老人はベンチで休んでるだけで並んでいないかもしれない」

 「でもあの後に来た客が老人側に並んだら、七果さんの仲間外れは決定ですね」

 「まだ来てないじゃないか。老人が休んでいるだけで並んでないと主張すれば、七果いじめは本人の被害妄想だ。彼女は怒りたくても怒れない。ピント直してくれ」

 「はい」




 佐竹の前で、八木は監視画像を調整した。

 「ターゲットは文句を言えないでバスに乗れるのか乗れないのか身体を壊すくらい心配することになりますね」

 「逆に加害者に文句をつけて戦おうとしても、どちらでもいい」




 八木はゾクゾクしてきたのか、佐竹につられて笑顔で言った。

 「彼女が黙っていたら次の客が来た時、仲間はずれにできる。怒ったら被害妄想にできる」

 「そうだ。集団ストーカーはターゲットがどちらを選んでも後悔する結末を用意している。これをダブルバインドという」

 (続く)


被害者の分担

 七果は後から来た老人に訊ねた。「次のバスに乗りますか?」ここまでくるのに七果は何度も辛酸をなめた。

 『並んでいますか』と聞いたのでは攻撃を受けるのだ。

 相手は『はい』と答えるが、次のバスが来て七果が進もうとすると『私が乗るのはこのバスではない』と七果の障害になる。

 彼女の質問に老人は「はい」と答えた。



 彼女は続けた。

 「並んでください」

 「あなたがベンチをまたいでこっちに来ればいでしょう」

 「後から来たあなたが私の後ろに並ぶのが筋です」

 「でもみんな隙間側に座ってるじゃない。数からいってあなたの方がおかしいよ。こっちに来たらいいじゃない」

 七果は仕方なく隙間組に入った。



 「馬鹿だな。やられる本人が悪いんだぜ」

 佐竹が面白がってると、八木は訊ねた。

 「どうしてですか」




 佐竹は四番乗り場の監視画像を見ながらソファでコーヒーを飲み、エアコンで涼んでのびのびと羽根を広げていた。

 八木は新人で仕事も上手ではなかったが、素直なので佐竹が個人的に気に入っている。

 話し相手もさせていた。




 佐竹は言った。

 「考えて反撃しないターゲットが悪いんだよ」

 「なるほど。つまり犯罪と戦えば被害に遭わないのですね」




 佐竹は八木にあきれた。

 「手向かってきたら攻撃受けて当然じゃないか。自分が悪いことも知らないで手向かうからいけないんだ。やられて当然なんだよ」

 「じゃあ、やられて反省してたら被害に遭わないのですね」

 「やられて黙っていたら攻撃を受けるに決まってるだろ。戦わない本人が悪いんだ」

 「佐竹さん矛盾してますよ」




 佐竹はもはや芸術とも呼べる友の会の統合失調工作に酔いしれ、うっとりと笑みを浮かべた。

 「当たり前だ。ターゲットが悪いから矛盾するんだよ。あいつが考えたら攻撃の理由になる、考えなかったら攻撃の理由になる。行動したら攻撃の理由になる、行動しなかったら攻撃の理由になる。理由は本人が悪いからだ」




 「へえ、知らなかった。暴力って原因はいつでも被害者のせいなんですね」

 「そうさ。だから自動的に解決する分担は被害者にあることになる。加害者は常に考えてもらう権利を満喫できるんだ。暴力っていつもしてくれる方のお母さんをでっちあげて、支配するゲームなんだよ」




 八木は知恵を回して考えた。

 「ターゲットが解決しないから悪い。でも加害者に不利な解決を考えたら全力で潰す」

 「そうだ。じわじわいじめ殺してやる。心理学者様々だ。社会のゴミを掃除してやってるんだよ。みっともないお母さんの替えなんかいくらでもいるんだ」

 「加害者が欲しいのはやられてくれるおもちゃみたいなお母さんじゃなくて、守ってくれるお母さんですからね」




 佐竹は物分かりのいい八木がかわいかった。

 「でもおもちゃってやめられないじゃないか」

 「そうですね」

 (続く)

救世主

ある朝、七果は隙間側に座っていた。

すると彼女の後続は全員順路側になり、バスが来た。七果は叫んだ。

「私並んでました」

順路側の乗客が彼女に釘を刺す。

「順路はこっちだよ。並ばないで休んでいたあなたが悪い」



 順路組は七果を追い越し、バスに乗車する。

 七果は順路組の前列、隙間組としての権利を行使するべく進もうとしたが、いくら待っても隙間組先頭は地蔵のように動かなかった。



 彼らは休んでいるのをアピールするかのようにおしゃべりを展開。七果は結局マナー違反者とされ、順路後続の最後尾に並んだ。

 順路後続に並んでいた壮年男性が七果の近くまで進んできて、片耳に手を当てた。

 「ターミナル封鎖」  




 四番乗り場の乗客はバスに乗り切れていないところで、どよめいた。

 運転手がバスドアを全開にして降りるように指示したからだ。

 ターミナルから出ていくバスも入るバスもなくなり、七果が変だなと思っていると、周囲に通行止めの三角スコーンとポールが次々と設置された。

 


 「おはようございます! ブルーフェニックス報道部、有吉小夏です」

 四番乗り場、順路組先頭の若い女性がカバンの中からカメラを出した。四番乗り場を撮影。

 「樹さんいじめの証拠は取りましたよ。楽しかったですか?」

 乗客は顔色を変えた。

 「そんなの知らない」

 「知らなければいいのです。ブルーフェニックスに協力していただきます」

ブルーフェニックス――警察に対抗できる武装組織といわれるーー。




 四番乗り場乗客は蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。

 すると乗り場後続の中の先ほどの壮年男性が突然懐から拳銃を出して発砲した。

 七果は一瞬、人が死んだと思ったが、狙い撃ちに遭った乗客は負傷しない代わりにインクまみれになった。



 拳銃を持っているのは壮年男性だけではない。

 四番乗り場乗客の中の男女数人が銃を出し、次々と逃走者を射撃した。

 しかしバスターミナルは狭くないので銃撃の網を抜ける逃走者も出た。

 その時ターンと銃声が反響し、同時にいいところまで逃げた者がインクまみれになった。



 七果はつぶやいた。

 「一体どこから」

 「ターミナル周辺の街路樹と、近くのマンションに狙撃手、スナイパーがいるんです」

  有吉はいつの間にか七果のそばに立っていた。

 「四番乗り場の乗客と言ったらターミナルの中の一握りですが、数か月にわたってカメラで監視させていただきました。容疑者自宅はすべてマークしています。樹さんも協力してくださいますね」

 


 「どこから見ていたんですか」

 「正面のマンションです」

 有吉は花が咲くように微笑した。

 「ブログ書いてたの、存じていますよ。頑張りましたね」



 ブルーフェニックスの第三部隊長、壮年の雨風塔吉郎はバスターミナルの主要な出口の一つを封鎖して展開を静観していた。

 今回の集団ストーカーは四番乗り場の一握りの乗客なのでブルーフェニックス機動隊が出るほどではないが、とにかくターミナルが広く、脱出口が多い。このため、四部隊が合同で封鎖している。




 インクまみれの老婆が公衆トイレ前を突破して塔吉郎がいる方のターミナル出口に突進してきた。

 彼女は塔吉郎の部下に抑えられ、周囲に叫んだ。



「助けて! ブルーフェニックスに犯人にされる」

「おばあさん、一般人はそういうこと言わないんだ。不思議だね。みんな協力してくれるよ」



 そうめったにあることではないが、大柄な塔吉郎がキレると一般人はあまりの怖さで攻撃を受ける前に具体的なダメージを受けたみたいになる。

 こわもてに生まれたわけではないのに、大きい身体のもそれなりに厄介なのだ。

 塔吉郎は彼女にやさしく引導を渡した。

(続く)


わたしはあなた

 「スナイパーは同じマンションか。危なかったな。しかし捕まるのは雑魚だ」

 監視映像を見ていた佐竹は誰かが自分の肩に手をかけたことに気がついた。

 「八木?」

 下働きは艶っぽく微笑した。

 「偽名だ。おれはブルーフェニックス第三部隊員、御門凪。捜査に協力してもらおうか」




 佐竹は一瞬の判断で即座に動いた。しかし部屋のドアから脱出しようとした時、仕掛けてあったトラップに足を取られ、転倒した。

 上体だけは起こしたが、トラップから抜けられない。




 「馬鹿だな。やられるから悪いんだよ」

 凪がせせら笑って歩いてきた。

 「おれ、やられる奴、大っ嫌いなんだ。どうしてやられたのか説明しろよ」

 「そこにトラップがあったから」

 



 突然、凪がフロアスタンドを蹴倒した。電球と傘が粉々に粉砕する。

 「物のせいにするんじゃねーよ! おれが納得する説明を考えろよ。どうしてトラップにかかったんだよ」

 「そこにあったから」

 「それじゃ説明になってないんだよ!」




 凪は癇癪を起こし、近くの椅子を足で吹っ飛ばした。佐竹が動けないのにどんどんにじり寄ってくる。

 佐竹が足蹴りを食らうのは時間の問題だった。

 佐竹は寒気を感じながら説明した。



 「おれが馬鹿だったからです」

 「それじゃ説明になってないんだよ! 便利な言い訳しやがって、馬鹿って説明したら何でも後始末してもらえるよなあ! いくつになって他力本願してるんだ。おれ、そういうの大っ嫌いなんだ。お前ってそういう奴だよ」

 


 凪は言いながらテーブルの上の陶器を次々と床でたたき割った。

 「じゃあ何て言ったらいいんだ」

 「考えろよ! 暴力って始めたらやめる理由を被害者に見つけてもらわなきゃいけなくて、やってる方も困るようになってるんだよ! 全部お前が悪いからだ! おれが反省しないで、おれが正しくて、お前が反省する方になる解決を考えろよ!」



 「そんなの自分で考えたらーー」

 「お前が悪いんじゃないか! 考えるのは自業自得のお前の方だ。おれは常に考えてもらう分担。こんな簡単なことがどうしてわからないんだよ!」




 凪が癇癪でカーテンを引きちぎる。その時、佐竹の足からトラップがあっさり外れた。

 「誰か助けて!」

 


 佐竹はこのチャンスにすがり、部屋から脱出しようとした。その時身体全体を何かが強烈に締め付けるのを感じる。

 佐竹が振り返ると凪は腰から上を床から生やしている巨人に膨れ上がり、片手一つで佐竹の胴をつかんでいた。



 凪の素肌は白く発光し、顔にかかる前髪に憂鬱そうである。

 倦怠感を感じさせる動きが輪をかけて巨人の剛腕を想像させた。

 佐竹は歯の根が鳴るのが止まらず、凪は喉で笑っていた。



 「おれ、やられる奴も戦う奴も大嫌いなんだ。おれは攻撃をやめるために、本人が悪いお前に依存しなければならない。おれを支配するなんて許さない。お前が悪いんだからな」

 「わぁぁぁぁぁぁぁ!」

 凪の手の中に電流が流れ、佐竹は感電した。




 はっと目を覚ますと佐竹は元のサイズに戻った凪の前に立ちすくんでいた。

 自分の冷や汗で濡れ鼠になっている。

 「おれは悪くない。七果が悪いんだ」




 凪は猟奇的な瞳と毒婦のようななまめかしさで佐竹ににじり寄り、利き手の人差し指を舌でなめた後、それで佐竹の喉をつうっと撫で上げた。

 「そう言ってる内は美味しいから苛め抜いてやるよ」

 凪の蛇のようなまなざし、ぬらぬらと光る妖艶な唇――。



 凪が手をのばし、佐竹の鼻と口がふさいだ。

 アイアンクローだ。

 佐竹は四肢を拘束されてるわけではないのに動けない。

 意識が明滅し始める。

 



 その時だった。

 凪の頭に誰かがペットボトルの水を浴びせた。

「目を覚ませ」



 第三部隊若手隊員、若鷺仁は凪と同世代、一つ上。

 凪が鶴ヶ峰集団ストーカー司令塔に近づいた後に続いて、司令塔の潜るマンション一室に仲間と突入した。

 悪い予感が的中して凪はシナリオにないことをやっている。

 仁は凪にペットボトルの水を浴びせ、佐竹を捕獲――というより保護した。




 佐竹は呼吸の軌道を確保し、息も絶え絶えになっている。彼は仁に主張した。

 「やられる方が悪いんだ」

 「かわいそうな男だな。一生そう言って子分に利用されてなさい。みじめな晩年が待ってるよ」



 仁は女子供に人気のある見た目からよくマリア様や王子様の役割分担が回ってくる。

 中身も保護者、保育士といわれる。

 佐竹がとっさにすがってきたのもわかる気がしたが、仁は万人に甘いわけではない。




 標的を殺害しそうになって水を浴びせられた凪は、後から来た先輩隊員、舵涼子にハンドタオルで拭いてもらっていた。

 「駄目でしょう、御門君」

 「ごめんなさい。でもよく覚えてない」

 「すぐカッとなって、もう」



 凪は演技力だけでターゲットに幻想をみせることができる。この力で友の会最深部まで潜入できるが問題も起こす。ブルーフェニックスでは便利なのか不便なのかわからないと言われ、諸刃の剣のように扱われている。



 ――その日、ブルーフェニックスは鶴ヶ峰バスターミナルの容疑者を、過去までさかのぼって全て捕獲した。


エピローグ

 翌日、仁は本部詰め所で凪が隊長からカミナリを食らうのを見た。

 「隊長、キレ過ぎて鼻開いてる」

 「覚えてろよ」



 次の週、凪は社会奉仕活動を言い渡される。平たく言って罰掃除。

 鶴ヶ峰バスターミナル公衆トイレの美化活動。

 仁は早朝、第三部隊から離れて美化活動に出発する凪を見送った。



 仲間の隊員が仁をつつく。

 「おい凪はいいけど、隣のアレは何だ」

 「被害者の樹さん」

 仁は答えた。

 「なんでペアのつなぎでくっついてるんだ」

 「お世話になったから、お手伝いしますって」

 「優しい人だな」




 この日、仁を含めた一部の第三部隊員は成浜市有田区に用事があり、バスを利用することになる。

 当然、鶴ヶ峰バスターミナルも使う。

 隊員は凪と七果が気になり、全員しれっと二人をチェックした。



 バスターミナルのトイレは相当旧いもので、潔癖症の女性は入れなさそうである。

 凪と七果は双子のようにそっくりな動きでトイレを磨いていた。

 「おい、凪」



 団子になってトイレ前を通りかかった隊員が呼びかける。凪と七果がくりっと振り返る。真顔。

 「いや、何でもない。面白かったんだ」

 二人同時にくりっと正面を向き、全く動きで床掃除。




 「あの、七果さん」

 仁が声をかけると、凪と七果が同時にくりっと振り返る。真顔。

 「えっと、何でもありません。面白かったんです」

 二人同時にくりっと正面を向く。全く同じ動きでトイレの壁磨き。隊員達がどよどよする。



 「おい、あの二人ミーアキャットか」

 「何で同じ動きなんだよ」




 旭区を訪れた第三部隊員数人は夕方、バスを使って本部に帰ることになる。

 仁がバスターミナルを訪れると、社会奉仕活動を終えた凪と七果がいた。

 彼らは四番乗り場の中で、バス順と縁のなさそうなベンチに並んで腰掛け、軽食のおにぎりをほおばっている。



 終始真顔の無言だが、仲が悪いわけではなく、心で通じあっている様子。

 カラスが阿呆と鳴いて飛んでゆく。

 ターミナルの茜の空はゆっくりと暗転し、豊満で優しい満月が現れた。

 生真面目な二人を光で包み込む。




 仁がのちに聞いた話だと、同じ日、同じ時刻にブルーフェニックス報道部隊員、有吉小夏は鶴ヶ峰にいたらしい。

 彼女は用事を済ませ、自宅に帰るところだった。

 凪と七果が手をつないでるのを見つけ、スクープのにおいを感じたが、後をつけた結果どうもロマンチックな展開にならなかったそうだ。



 凪と七果は鋼鉄線鶴ヶ峰駅まで歩き、そこで解散した。

 甘酸っぱいセリフは一切なかったが、キャラクターグッズメーカー、チャンリオの天体双子キャラ、“テオとマチ”顔負けの絆で結ばれているみたいだったという。


(終わり)